195:帰還の時

『オブ、貴方がちゃんと“選んで”いたならね』

『っ』

『私は今から、貴方を責めるわ。私の大事な人を、お兄ちゃんをここまで軽んじられたとあっては、許しようがない!』

 

 ニアはその時、軽蔑と怒りとどうしようもない気持ちを活火山のように噴火させた。

 目の前の“女の子”だった者に、俺の胸倉は掴まれ、引き寄せられる。眼前には最早、女性とか女の子とか、そういうモノではない人物が居た。

 これから、俺はこの人に、目を逸らしてきた自身の気持ちの一端を引っ張り上げられ、衆目に晒される。

 

『オブ!お前は選ばなかったな!?逃げたんだ!今日、お前の顔を見て、そんなのすぐに分かったよ!?無理なら無理と言え!お前と歩む未来が怖くて、もう選べないと!お兄ちゃんにサヨナラを言え!そう言う“選択”をきちんとお前がしていれば、私は何の文句もなかった!逆に大したもんだと、心から尊敬だってした!やっぱり貴族って奴は、あんな貧しかった私達の村を変えられるだけの大きな存在で、それ故に果たさなければならない使命や責務があるんだって!お前が“選択”さえしてくれていたなら、私はお兄ちゃんに、貴方の好きになった人は間違ってなかった!って抱き締めてあげられた!なのに!』

 

 ここに来て、やはりもう見逃せなかったのか。遠くで構えていた執事の一人が、俺からニアを引き離すべく、慌てて駆け寄ってくるのが見えた。

 俺はもう、何も言えずに怒りと悔しさで、いつもはキラキラと星を降らせていた筈の目に、釘付けになっていた。

 この目はダメだ。この目はどうしても“アイツ”そっくりだ。キラキラして、俺だけを真っ直ぐ見つめる、大好きで、愛しくて、手放したくない、あの目そっくりなんだ。

 

 あぁ、見るな。そんな目で俺を、見るな。

 

『そんな“絶対に離れたくない”“お前は俺だけのモノ”みたいな目をして、お兄ちゃんに何を言ったのよ!?ねぇ、そんな目で、何も選んでいない目で、ただお兄ちゃんを遠ざけるだけの意味の無い言葉を言ったんじゃない!?』

『その手を離しなさい!無礼すぎる!』

『…………』

 

 俺の体からニアが無理やり引きはがされていく。

 

 あぁ、ちょうど良かった。

 これ以上、あの態勢で居られたら、きっと俺はニアにすら、女の子にすら手を上げていたかもしれない。

 

 ニアはそんな執事の制止や俺の気持ちなどお構いなしに『オブ!聞け!』と、両腕を背後から引っ張られながら、俺だけを睨みつけ続けた。

 

『ねぇ!そんな事されたら、お兄ちゃんはどうすると思う!?帰って来もしない貴方を、ずっと“待って”しまうじゃない!そんなの卑怯よ!自分は選択する苦悩から逃げて、かといって辛い現実の中でも、自分に都合の良い方に流れて!しかもそれを自ら選んでしまったら、手放さなければならないモノが出てくるって分かっているから、選び取ったりはしない!お前はお兄ちゃんの!インの心は持っていったまま、自分に都合の良い温い人生にその身を置くつもりでいるんだ!逃げるな!ちゃんと選べ!インを解放しろ!サヨナラを言え!インの人生を何だと思ってるんだ!?』

『こっちに来なさい!』

 

 晒された。俺のどうしようもなく、浅ましい気持ちを。望んでいた俺の汚い欲望を。衆目に晒された。

 

 いや、違う。衆目などではない。俺という、一番目を逸らしていた人間の前に、ぐうの音も出ない程、理路整然と、逃げ場など無い程。

 まるで四方を壁に囲まれた部屋に閉じ込めるみたいに、耳を塞ぐ事も、目を逸らす事も許されない程に、突き付けられた。

 

『オブ!』

『……ニア、俺、お前の事が本当に嫌いだったよ。頭が良すぎる女って、本当に面倒』

『……っおぶ』

『あぁ、別にニア。君が特別嫌いって訳じゃない。僕はキミを特別扱いなんてしてないよ。僕の特別はインだけだから』

 

 俺は、体だけが大人になった。心の底に隠していた子供の自分を、大人の体が内包している。この、独占欲も恐怖心も、あの頃から何も変わっちゃいない。

 

『その通り、君のお陰でスッキリしたよ。ありがとう』

 

 俺は後ろ手に両手を掴まれ、前のめりになるニアに顔を近づけて、そして、笑った。笑わずにはおれなかった。逆に心がスッキリしてしまったからだ。ここ最近の曇天が、一気に晴れ渡ったような心持だった。

 

『僕は卑怯で汚い人間だから、君の言う通り、インの心だけは僕が持っていくよ』

『っ!』

『だって、愛してるんだ。仕方がない。僕は仕方なく、好きでもない、家の決めた相手と結婚して子供を作らないといけないんだから、それくらいいいじゃないか。あぁ、インが同じように俺じゃない誰かを隣に置くなんて許さないよ。ましてやビロウなんて論外。そんな事出来ないように、僕はこの家でのし上がらないと。アイツがインに何かしようものなら、この家から追放してやらなきゃならないから』

『オブ……お前。インを、お兄ちゃんを、どうする気』

『どうもできない。だから、縛る。僕に、縛る。死ぬまでインは僕の』

『卑怯者……お兄ちゃん、間違ってた。好きになる相手を、お兄ちゃんは間違った……どうしよう。こんな奴に、連れていかれたら、ダメなのに。お兄ちゃんはもっと幸せになれる筈なのに』

 

 ニアはもう俺の事など見ずに、俯いてブツブツと何かを言うだけだった。頭が良くても、力が無ければ意味がない。どんなにニアがインを幸せに導こうと躍起になっても、それは無駄だ。

 

 ニアにはインを変える力は持っていない。

 だって、既にニアの最愛はもう別の場所にある。最愛に縛られる者を救うには、まず自分の最愛を差し出さないと。

 まぁ、差し出したって無理だろうけど。

 

 だって、インは俺を愛しているんだから。俺しか愛していないから。

 

『ニア?』

『っ!』

 

 俺はニアの顎に親指と人差し指を添えて、顔を無理やり上に上げさせた。俺を見る目は、軽蔑と侮蔑と怒りと恐怖に彩られ、その体は震えていた。

 

『ニア。フロムとお幸せに。君ならきっと素敵な“お母さん”になれるよ』

 

——–じゃあね。ニア。

 

 俺は執事にニアを屋敷から追い出すように伝えると、もう、振り返る事なく執務室へと歩を進めた。

 

『あぁ、待ってるだけなら、楽でいいよね。イン。だからさ、』

———これから残りの人生。ずっと俺だけを待っていて。

 

 執務室の机上には手紙がある。本家からの手紙。成人の儀の前に、戻ってくるようにと書かれたその手紙には、帰る期日が克明に記してあった。

 

 

 

 一週間後。俺は此処から出て“家”へと帰る。