『ここでいいだろ?』
『ああ』
既に、夕日も沈みかけ大分と暗い。もう、秋も終わり。すぐそこには寒い、寒い冬が待っている。けれど、俺はその凍えるような寒い冬を、此処で過ごす事は、もう二度とない。
『ほら、開けろよ。飲もう』
『……』
それぞれに持った酒瓶のコルクを開け、俺達は互いに向き合って一気に酒瓶へと口を付ける。もう、充分に大人になったのだと、喉を通り抜ける焼けるように熱い液体を飲み干しながら思った。
『っは』
『酒って、こんなんなのか……あっつ』
熱い。
そういえば、父も昔はよく酒を飲んでいた。それこそ浴びるように。それが、いつの頃からだったか、殆ど飲まなくなった。
確かにこの飲み物は、自身の“正気”を失くすのに、ちょうど良い。
今の俺にはピッタリだ。
『なぁ、オブ。お前、インの事が心配なんだろ?』
『は?』
酒によってカッと熱くなる体と、ボンヤリする頭を抱えた俺に、急にフロムが意味の分からない事を言い出した。
一体、お前は何を言っているんだ。
『とぼけるな。お前、自分が居なくなった後、インがダメになるんじゃないかって心配してるんだろう。分かるよ。インはお前の事、大好きだもんな』
『…………』
いや、フロム。お前ちっとも分かってないじゃないか。
俺は余りにも見当外れなフロムの言葉に、本気でそれまで感じていた、焦燥やら苛立ちやら、そして不安やらが一瞬だけ消えてなくなるのを感じた。
あぁ、笑える。
むしろ、俺はインに俺が居ない事で、おかしくなって欲しいと思っているのに。
『きっとアレだろ。ニアはお前がインを置いて行く事に対して、怒ったんだよな。ほんとに、お前だって辛いだろうに。ニアはインの事となると、周りが見えていないというか……子供みたいになる。許してやってくれ』
フロム。
わかっちゃいたが、コイツは本当に体を動かす事しか能がない。あの、俺の心の中の奥の奥まで無遠慮に入り込んできて、大暴れしていったニアとは大違いじゃないか。
よくもまぁ、こんなに真反対な二人が、共にこれからの人生を生きる伴侶として互いを選んだものだ。
『いや、違うな』
『ん?』
いや、反対だからこそ、この二人はこれ程までに、互いを求めあっているのかもしれない。こんなに裏のない、真っ直ぐなフロムだからこそ、ニアはこの男を愛したのだ。
ならば弱虫で怖がりでズルい俺など、ニアにとっては最も軽蔑すべき男に違いない。
『なぁ、オブ。インの事、きっと心配で心配で仕方ないと思う。確かにインも、お前が居なくなってしばらくは、立ち直れないだろう』
『…………』
しばらくは、というフロムのその言葉に、それまで内心、鼻で笑っていた筈のフロムの言葉に、俺は嫌なモノが背中に張り付くような感覚に陥った。
『けど、インは大丈夫だ。いつかはまた、俺達がもっと、今よりずっと大人になった時、笑って互いの家族を紹介し合えるような日が、必ず来る』
『……なんで、そんな事が分かる』
そう、問わずにはおれなかった。あぁ。何だ、これは。
背筋に張り付いた嫌なモノがどんどん大きくなっていく。こんな考えの足りないフロムの言葉に、心を乱される必要などない筈なのに。
俺はその背中の嫌なモノから逃れるように、手に持っていた酒に一気に口を付けた。
熱い。
『お前には言ってなかったと思うけど……俺とインには、お前が此処に来る前にもう一人、仲の良い友達が居たんだ』
『は?』
フロムの言葉に、俺は腹の底が一気に冷えるような感覚に襲われる。体は熱いのに、体の中は氷のように冷たい。これは一体何なんだ。
『ビットウィンって言う奴でさ。本当に面白くて良い奴だったよ。俺達3人は毎日毎日一緒に遊んでた。それこそ、お前が来てからの俺達みたいに』
『そんなの、聞いた事、ない』
ビットウィン。
俺は初めて聞く名に、心の中に広がる焦燥が、どんどんと広がっていくのを止められなかった。誰だよ、ソイツは。俺は一度だって聞いた事がない。
なぁ、イン。お前、俺に対して言ってない事があるなんて、どういう事なんだよ。
『別に隠してた訳じゃない。昔、この村が本当に貧しかった頃。子供は本当によく死んでたんだ。そして、死んだ子供の話は、絶対にしてはいけないって大人達から言い含められていたからな。まぁ、言われなくても……口になんて出せっこなかったけど』
『……そいつ、どんなやつ』
俺のその問いに、フロムが俺を地獄に叩きつけるような事を、あの、いつものカラッとした笑みを湛え、言った。
『お前みたいな奴!村の子供にしちゃ頭が良かったし、変な所負けず嫌いで、俺に張り合ってきて。そして……インと、一番仲が良かった』
『…………』
吐きそうだ。
酒でぼんやりとする頭とは裏腹に、俺の耳はフロムの最悪な言葉を拾うのを止めない。
やめろ、やめてくれ。もう聞きたくない。
俺の知らないインの話なんてするな!インの事で俺が知らない事があるなんて、これ以上知りたくない!
『けど、ビットウィンは死んだ。まだ8歳だったのに。ほんと、ただの何て事ない風邪をこじらせて』
『…………』
———-風邪くらいで大袈裟?俺の友達は今まで風邪で何人死んだと思う?
いつの日か、フロムが俺に向かって放ってきた言葉が頭の片隅を過る。あの言葉は、確かに、たった一人の特定の人物への想いを込めた言葉だったのだ。
けれど、今の俺にはそんな事はどうでも良かった。
『ビットウィンが死んでから、しばらくは俺もかなりキツかった。けれど、俺以上に、インはもう本当にヤバくて。全く笑わないし、食事も摂らないしで。次に死ぬのはインなんじゃないかって、村では言われてたくらいだ』
『でも、インはそんな、素振り……一度だって』
なぁ、イン。お前、そのビットウィンって奴と一番仲が良かったんだって?けど、俺と出会ってお前はそんな素振り、少しも見せなかったじゃないか。
俺の事が大好きで、悲しい事なんて何もありませんみたいな顔で笑っていたじゃないか!
『やっぱりさ。時間って凄いよ。あんなだったインも、少しずつまた俺とも遊ぶようになっていったし、笑うようになった。そして何より』
『…………』
『お前が来てくれた』
やめろ。やめろ。やめろ。
熱い、気持ち悪い、頭が痛い、背筋がゾクゾクする。
笑って俺を見てくるフロムが、今や俺にとっては悪魔にしか見えなかった。
じゃあ、何か?俺は、そのビットウィンって奴の代わりだったって事か?インにとって、俺は代替品でしかなかったって事なのか?
『お前が来てからのインは、ビットウィンが居た時か、それ以上に毎日楽しそうだった。それくらいインはお前の事が好きで好きで堪らないんだよ。けど、それでもやっぱり時間が全て解決してくれる。時間と、そして新しい出会いが』
『っ』
時間。そして、新しい出会い。
それが、またインを笑顔にする?笑顔にして、俺の知らない奴と楽しそうに人生を歩んでしまう?
なんで、なんでなんだ?インは俺の事を愛している筈なのに。俺だけを愛している筈なのに。俺が居なくなった後も、俺だけを待って、俺だけの為に一人で生きてく筈なのに。
『なぁ、オブ。だからインの事は何の心配もいらない。きっと、いつか俺達はまた、笑顔で会える日が来るさ!だって、俺達は生きてるんだからな!』
そう言って笑った友人の屈託のない笑顔が、俺には悪魔の笑顔に見えた。