○
「トウ、目が本気だったな。いや、ほんと怖すぎ」
そう、バイの額に口付けをしてやった後、俺は一旦、本当に部屋を出た。いや、なにせトウの目が本気で怖かったからだ。
しかも、『ちょっとお手洗いに行ってくるから』という俺の発言に対し、バイが『心配だから、俺もついて行く』と言い出した時は、最早俺の命もここまでかと覚悟を決めた。
「バイに絡む時は、ほんと気を付けねぇとな」
あんなハッキリとした殺意を、一般人の俺は受けた事など一度もなかったのだが、いやぁ、殺意って本当に先の尖った刃物みたいな感じなんだな!良い経験になったわ!
俺はお手洗いの前の水場で、特に何をするでもなく自身の顔を鏡で眺めていた。別に本気で用を足したかった訳ではない。単純にあの殺気に満たされた空間からの脱出と、上手い事バイがトウの機嫌を直してくれる事を期待して部屋から出た。
それだけだ。
「でも、そろそろ戻らないと。またバイが大騒ぎしそうだな」
鏡に映る代り映えのしない自身の姿に俺は一息大きな溜息を吐くと、さて部屋に戻るか、と鏡から目を逸らそうとした。
「あれ?」
顔を動かし視線を鏡から逸らそうとした瞬間、俺は自身の首元、鎖骨辺りに何かの赤い跡が出来ているのに気が付いた。
今着ているコレは、ウィズの寝衣を借りたものだ。サイズが若干大きいせいで、肩幅が足りず、特に右肩の方はすぐにズレてくる。その為、動いた拍子に、またしても右肩部分がズレ落ち、何かに刺されたような赤い跡が、チラリとその姿を覗かせたようだった。
「また、何かぶつけたか。どこもかしこも傷ばっかりだな。俺」
昔から傷は治りにくい方で、やたらと傷跡が残りがちだったが、どうやらコレもマナが最低限しかない事による弊害だったらしい。
お陰で、最近できた傷だけでなく、俺の体は昔からある傷が、体中そこかしこに消えずに残ってしまっている。
「まさか、虫に刺されても死ぬ可能性があるなんて言わないよな」
首筋に微かに見えていた虫刺されのような跡に、俺は眉を顰めた。さすがに夏によく出る吸血虫に噛まれただけで死にますと言われてしまったら、俺は一旦夏だけでも、吸血虫の居ない北部に逃げるしかなくなる。
アイツに刺されない夏など、俺は一度として過ごせた事なんてないのだから。
「はぁっ!?」
一体どんな風に赤くなっているのか確認すべく、俺は右側の寝衣を少しだけズラしてみる。すると、そこにはその1カ所だけではなく、もう何十カ所も同じ赤い跡が、俺の肌に点々と色を残していた。
「えっ、何。コレ。俺、死ぬの?」
その、余りにも多い赤い跡の数に、俺は心底ゾッとしてしまった。もしかしたら、これはマナが無い事で生じた新たな弊害かもしれない。いや、それとも寝ている間に、何か危ない虫にでも刺されてしまったのか。
「昨日はこんなの無かったのに!あの布団、もしかして、何か変な虫でも居るのか!?それとも、何か別の病気かもしれない!うぃ、ウィズに報告しないと!」
俺はまだまだしないといけない事があるのに!
こんな布団に寄生していたかもしれない虫に殺されてしまっては、さすがの俺も死んでも死にきれない。
「ウィズ、何時に帰ってくるって言ってたっけ?」
俺は速足で廊下を駆け抜けると、俺がいつも過ごさせてもらっている奥の部屋の前まで戻って来た。とりあえず、トウの機嫌が直っている事を願いつつ、ウィズの帰りを待つとしよう。
そう、俺が部屋の戸に手を掛けた時だった。
『ウィズ!お前はまた、選ばずに逃げる気か!?いい加減にしろよ!』
『…………』
『おい、バイ。もう、やめろ!ウィズだって辛いんだ!』
『お前は黙ってろ!トウ!俺はコイツのこういう狡い所が、昔から大嫌いだったんだよ!』
扉の向こうから、バイの怒鳴る声と、それを止めに入るトウの声が聞こえる。内容からすると、どうやらウィズも部屋の中に居るらしい。
「……どうしよ」
俺はこの体にある赤い大量の斑点の事を早くウィズに伝えたかったが、これは明らかに、今「よっ、ちょっと聞いてくれよ~」と部屋に入れる雰囲気ではない。
なにせ、今の争点は、きっと“イン”だ。
全ての鍵で、最後の一片。ウィズの幸福に欠かせない人物。
『なぁ、ウィズ!お前、前もそうやって選ばずに自分の都合の良い方に流れて、結果、あんな事になったよな!?お前が後悔するのは勝手だけどな!?あの時は、お兄ちゃん……インが最期どんな気持ちだったか考えると、俺は未だにどうしようもない気持ちになるんだっ!』
『バイ!もうそれ以上言うな!』
ガタンと何かが倒れる音がする。きっと椅子か何かが倒れた音だろう。
あぁ、まったく一体アイツらは何を揉めてるんだ。
「……イン、早く帰ってこないと。皆、バラバラになっちまうぞ」
そう、俺は誰に言うでもなく呟いた。インなんて、ほんとに一度だって会った事もないのに、アイツらが余りにもインを意識しているせいで、俺までインをよく知っているような気がしてしまう。