207:あなたに望むこと

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——なぁ、オブ。だからインの事は何の心配もいらない。きっと、いつか俺達はまた、笑顔で会える日が来るさ!

 

 

 そこから後のフロムの言葉は、俺ももう余り覚えていない。

 酒の入ってボンヤリとする頭を抱え、俺は徘徊するように歩いた。いや、徘徊は言い過ぎた。俺はちゃんと意思を持って、目的地を目指して歩いていたのだから。

 

『イン、イン、イン、いん』

 

 うわ言のように口から漏れ出るインの名は、最早、呪いの言葉だった。インを縛る呪いを、俺はインに対してかけたつもりだった。けれど、それは何て事はない。俺がインに縛られる呪いだったのだ。

 

『いん』

 

 俺の足はハッキリと、インの家の前まで向かっていた。

 小さな、小さなその家。暗くなった夜空の下、その小さな家からは楽しそうな声が聞こえてくる。

 その中には、インの声も混じっている。

 

 笑い声だ。俺の大好きだった、大好きな、大好きでたまらない。

 インの、わらいごえ。

 

 なぁ、イン。どうしてお前は俺が居なくなるっていうのに、そんなに笑っていられるんだ?なぁ、イン。どうして。どうして、どうして?

 

 俺は何をどうする事も出来ないまま、インの家の戸を見つめ続けた。インという、呪いの言葉を心の中に渦巻かせながら。

 

『薪がない?なら、俺が納屋から取ってくるよ!』

『っ』

 

バタン。

まさか、俺の心の声が届いたのかと勘違いしてしまいそうなタイミングで、家の扉が開いた。そして、開いた先には俺が、愛して愛して止まない、インの姿。

 

『……あれ?オブ?オブ!』

『…………』

『あっ、会いに来てくれたんだ!ちょっと待ってて、すぐに行くから!』

 

 インは俺の顔を見た瞬間、いつもの、あの心底嬉しいですと言わんばかりの表情を浮かべると、一旦納屋に向かって走り出した。きっと、薪を取りに行ったのだろう。

 ほら、インは俺の事を愛してる。大好きなんだ。だから心配なんていらない。

 

『いん、そう、だよな。お前は俺を、』

——–お前みたいな奴だったよ!ビットウィンは。

 

 けれど、俺の心に湧き上がってきた都合の良い“想い”は、先程のフロムの言葉によって簡単に打ち砕かれる。

 

『オブ!来てくれるって信じてた!』

 

 いつの間にか、俺の目の前には薪を家の中へ急いで運び終わったのだろう。インが肩で息をしながら、俺の前へと立っていた。インが居る。俺のすぐ、目の前に。

 

『俺達はまだまだ、全然話足りない!ねぇ、オブ!そうでしょう?……オブ?』

『来い』

『ッオブ?』

 

 驚いたような声を上げるインの腕を、俺は乱暴に掴むとインの意思など関係なく、前へと進んだ。

 

『オブ!どうしたの?具合でも悪いの?顔が真っ青だよ?ねぇ、オブ!大丈夫!?』

『黙れ』

『っ』

『うるさいな。ちょっと、黙ってろよ』

 

 俺はインの顔なんて一切見ずに、そんな事を言う。もうどうしたら良いのか分からなかった。俺が“選択”しさえしなければ、インは永遠に俺のモノだと思っていた。

 捕らえていられると、縛っていられると。なのに、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。

 

 時間は本当に残酷だ。俺がこんなにもインに縛られている間も、インはビットウィンって奴の時みたいに、きっと俺の“代替品”を使って、人生を笑顔で送っていくのだろう。

 

 そんなの絶対に許さない許さない許さない。

 

『オブ……?』

『ねぇ、イン。どうやったら、インは俺の中に閉じ込めていられる?』

『……?』

 

 辺りは既に真っ暗だ。

 暗い中に、うっすらとした月の光が木々の隙間から漏れる。ここは俺とインだけの秘密の場所。俺が全てを置いて走って逃げた場所……だった筈なのに。また、戻って来てしまった。

 

『イン』

 

 俺は静かに後ろを振りかえって、インの顔を見た。

 

 そこには、いつもの「なにも分かってません」みたいな、インの顔。なんで、分かってくれないんだろう。

 

 

——–どうして、王子様は主人公を助けてくれたり、一緒に遊んだり。凄く良い友達だったのに、最後、あんな事をしたんだ?また来るよって言ったのに……約束だって言ったのに、どうして信じられないんだろう。

 

 

 まるで、本当に“あの物語”を読んだ後みたいじゃないか。

 あぁ、もどかしい。腹立たしい。なんで、どうして分かってくれない?

 

『ねぇ、イン。俺が居なくなったら悲しい?』

『居なくならないで。一緒に居て。一緒に都で酒場を開くんでしょ?約束したもんね』

 

 この期に及んで、まだ、そんな子供の頃の夢を持ちだすなんて、本当にインは愚かだ。

 

『っは』

 

 愚かで、頭が悪くて、そして、身の程知らずだ。貴族の俺と、本当にずっと一緒に居られると思っている。その愚かさが、こうして俺を苦しめ続けていると、何故気づかない。

 

『ねぇ、イン?俺が居なくなった後に、俺みたいな他の奴と楽しく笑う?』

『オブが居てくれる。俺の隣にはずっとオブが居る』

 

 俺は永遠の地獄の中に居るような、そんな気持ちで、インと向き合っていた。インとの会話は噛み合わない。

 

『オブ、泣かないで』

 

 インの言葉に、俺は思わず眉を顰めた。泣かないで?俺は泣いてなど居ない。一体インは何を言っているんだ。

 

『じゃあ、イン。お前は、俺の為に泣けよ。悲しめよ』

『……もう、たくさん泣いたよ』

『嘘だ。さっき、笑ってたじゃないか。なぁ、頼むよ。イン。俺が居なくなっても、俺だけのインで居て。絶対にもう誰にも笑いかけないで。俺が居ない悲しさでいっぱいになって、辛くて暗い、一人ぼっちの人生を送ってよ』

『オブ……』

 

 口にしながら、それを、俺は随分と自分勝手で無茶な事を言っているなという自覚すら持てなかった。どうしようもない現実と、先程飲んだ酒で、頭がおかしくなっていたのだ。