211:新しい手帳

「俺は勝手な男だ。お前は俺を追いかけて来てくれるものだと、どこかで勝手に思っていた。追いかける事すら躊躇わせているのは他でもない俺なのに……勝手に不安になって、勝手にお前からの呼びかけに無視して、挙句、付いて来てくれなかった事にもショックを受けてしまった」

 

 すまない。

 苦し気なウィズの謝罪が続く。俺にはウィズが何に怒って、何に苦しみ、そして何に悲しんでいるのかすらわからない。きっとインなら分かっただろうか。

 あぁ、きっと分かったのだろう。

 

 インなら分かってくれるだろうと思うと、もう俺自身が分からない事に対して、大したもどかしさは感じなくなっていた。

 

「…………」

 

 俺は手渡された手帳を、しばらくの間、見つめ続けた。

“ぎょうかん”を読めない自分でも、もし、今これをウィズに返そうものなら、それこそウィズを悲しませてしまう事だけは分かる。

 

「よし」

 

 だから、俺は正しい行動をなぞるように、ぼんやりとした感覚で、鞄の中から“あの”中身のいっぱいになった手帳を取り出す。取り出して、カバーから使い古された手帳を引き抜くと、今しがたウィズが買ってきてくれた、新品の手帳を手早く挟み込んだ。

 

「うん、ぴったりだ!」

「……アウト」

「ありがとう、ウィズ。これは、ありがたく貰っておくよ」

 

 俺の気にいりの手帳カバーにピタリと収まったソレに、俺はポケットに入れていたペンを取り出すと、頁の1枚目にサラサラと文字を記した。

 

 そこには今日の日付。そして、ウィズが買ってくれた事を書く。

 

「これで、忘れないだろう?」

「ああ。そうだな」

 

 少しだけホッとしたような表情で頷くウィズに、俺はもう一言、日付の隣に文字を書き足す。書き足して、すぐに手帳は鞄の中に仕舞い込んだ。

ともかく、ウィズが機嫌を直してくれたようで何よりだ。俺は、ちゃんと“正しい”選択を取れたようだ。

 

「……何か、欲しいモノでもあったのか?」

 

 俺が時計を扱う露店の前に立っていたからだろう。ウィズがふと店の方を見ながら俺に問いかけてきた。

 

「いや、何も。ただ目に付いたから見ていただけ」

 

 そんなウィズに俺は静かに首を振ると、ウィズの肩を叩いて歩き始めた。

 

「本当か?何か欲しいモノがあるなら俺に」

「なんでウィズはそう俺にモノを買ってやろうとするんだ!大丈夫、本当に見てただけ。だいたい、俺の見てるものを全部買ってやろうとしてたら、ウィズはこの古市の殆ど全ての物を買わなきゃいけなくなるぞ!」

 

 俺が笑ってそう冗談を言うと、ウィズはどこか憮然とした表情で頷いた。頷いて、余りにも真剣な顔で「金ならある」などと言うものだから、最早吹き出した後、大笑いせずにはおれなかった。

 

「ぶはっ!っあははは!ウィズの冗談なんて貴重過ぎるな!もう、ほんっと!今日は良い日だ!」

「冗談ではない。本当にこの古市でお前が欲しいモノを言っても、全部買えるだけの金はあるんだ」

「っははは!分かった!分かったから!ウィズが金持ちなのは十分知ってる!本気は本気で面白過ぎるから!あぁ、もう……お腹痛い!」

「腹が痛い!?具合でも悪いのか!」

「ぶはっ!もうこれ以上笑わせないでくれ!」

 

 天気も良い。冬の空気は澄んでいて清々しい。隣にはウィズが居る。しかも面白過ぎる冗談なんて言いながら。

 俺は真っ青な空を仰ぎ見つつ、改めて思ってしまった。

 

「あぁっ!幸せだなぁ!」

「アウト」

 

 笑い過ぎて目尻に溜まった涙を拭いつつ、俺は戸惑った表情を浮かべるウィズの肩を叩いた。

 

「そろそろ、お腹空いたな!昼飯でも食べて、アズの所へ行こう!今日は早めに行くって言ってあるんだよな?」

「……ああ」

「よしよし。ウィズは俺に金を使いたいみたいだし、ウィズにはまたオラフでも奢ってもらおうかな!」

「もっと高いモノでもいいんだ」

「お前は俺のおじいちゃんか!もしくは金でしか愛情表現の仕方を知らない不器用なお父さんか!」

「俺は、お前の祖父でも父でもない。……ただ、確かにそうかもしれない。俺はお前のように、心の内を、素直に言葉や態度で表現するのが、やはり苦手なようだ」

 

 ウィズの俯きながら呟かれた言葉に、その瞬間、俺は心の中に何か冷たいモノが吹き抜けていくような感覚に陥った。

 それまで笑顔だった筈の表情が、ヒクリと固まる。

 

「俺だって、全然得意じゃねぇよ」

 

 思ったよりも低い声で、しかも投げやりに言い放ってしまった言葉に、俺自身何故かギクリとしてしまった。何にギクリとしたのか、自分でも分からない。分からないので、弁解も何もできない。

 

「……アウト」

「ほら、行こう!お腹空いたお腹空いた!一番高いオラフを奢ってくれ!」

 

 今日は、今日だけは笑顔で1日を終えたい。だから、もう分からないモノには目を向けないようにしなければ。

 俺はウィズから表情を隠すように、1歩前へと歩み出ると、わざとらしく背伸びをして「何食べようかなぁ!」と明るい声を上げた。