213:幸か不幸か

『オブです。入りますよ』

『ああ』

 

 俺は父にこの謎の紙切れを手渡すべく、執務室へと向かう。部屋の向こうから聞こえてくる低い声。この声が、幼い頃は怖くて仕方がなかった。

 けれど、今はなんともない。

 

 あの頃は、とてつもなく大きく恐ろしく感じていた父さえ、今の俺にとっては、ただの同じ目線に立つ、ただの一人の男に過ぎない。

 

『すみません。帰って来て色々と忙しくて……遅くなりましたが、預かっていたモノです。最後の、彼からの贈り物です』

『……そうか』

 

 執務室の椅子に腰かけて書類に向き合っていた父が、わざわざ立ち上がって俺のもとまでやってくる。贈り物を手渡す時は、いつもこうだ。

 待ちきれないとでも言うように、この時だけは、父は子供のようになる。

 

『……これは』

『さぁ、俺にもよく分かりません』

 

 彼の贈り物で、よく分かるものは一つもなかった。けれど、父は彼からの、初めての“手紙”のようなモノに、しばらく目を奪われている様子だった。

 もしかしたら、これは父には何か分かるのかもしれない。

 

 あ、そういえば。

 

『自分は、文字は書けないからと、伝言を預かりました』

『スルーが、か』

 

 そう。あの、スルーから、だ。他に誰が居るというのだろう。

 今までも、たまに彼から伝言を受ける事はあった。俺にとっては、その伝言すら全てが意味の分からない事ばかりで、正直伝える意味があるのか?と思った事は一度や二度ではない。

 

『アイツは、何と』

 

 けれど、伝えたら父にはいつも少しだけ、意味が伝わっているようなので、俺は律義にいつも、意味の分からない言葉を父に伝えて来た。

 今回の伝言は。

 

———“俺は今でも、

『夜が好き”だそうです』

 

 口にして分かった。あぁ、この絵は“夜”か。丸が月で、この小さな白い点は星のつもりなのだろう。

これは、彼にとっての“夜”なのだ。

 

『スルーが、そう、言ったのか』

『はい。どうやら、その絵は“夜”みたいですね。全然気づきませんでした』

 

 そう言えば、インはよく俺の事を“月”のようだと言ってくれていた。【君とぼくの冒険】の物語に出てくる“月の王子様”に当てはめて、いつだったか、俺の事を“月の王様”なんて言ってきた事もあったっけ。

 俺は王子様というより、偉そうな所が“王様”みたいだ、と。本人を前にして、よく言う。きっとインに、悪気なんて欠片もなかったからだろうが。

 

———-王様って、何だか格好良いでしょ!

 

 もう、全部が懐かしい。全部が夢。全部が遠い。それこそ、まるで月のようだ。

 

『父さん?』

『……ヨルか。あぁ、懐かしい』

 

 俺がどうしようもない郷愁に襲われている時、どうやら父も同じ気持ちになっていたようだった。思い出す記憶は違えど、俺にはその父の顔の示す気持ちが、手に取るように分かった。

 

『もう、返事を渡せないのが……口惜しいな』

『…………』

 

 父は今でも彼を愛している。その絵の意味も、言葉の意味も、父にしか分からない。二人にしか分からないモノで構成されていて、俺はそこを覗く事は叶わない。

 そう言うモノが、愛する相手とあるというのは、どんな気持ちだろうか。

 

 幸せなのだろうか。それとも、自由に会う事も、言葉を交わす事も出来ない今、絶望を感じているのだろうか。

 

『一つ、聞いても良いですか』

『なんだ』

 

 俺の目の前で、父は片時も彼からの手紙から目を離さずに答えた。

 どうして“愛している”のに、平気な顔で別れる事が出来たのだろう。生きる事が出来るのだろう。

 

『父さん。貴方は今、此処に居て幸せですか』

 

 “最愛”と出会えた喜びは、俺にも分かる。けれど、それと共に知った。“最愛”を選べない苦しみと不幸は、それを圧倒的に凌駕する。

 俺は今、生きているのか、死んでいるのか分からない。

 きっと、これから俺はずっとこの不幸の石ころを、蹴り続けながら生きていくのだ。どこかへ行って欲しいと願っても、この石ころは蹴る度に、俺の前から離れる事はないのだろう。

 

『幸せだ』

『どうして』

 

 父の口から放たれた、全く予想外の答えに、俺は思わず食い気味に言葉を返していた。

 嘘だ。そんな苦し気な表情を浮かべ、そんなくだらないものに執着しないと生きていけないような“今”“此処”が、幸せな訳がない。

 

 

『別に誰にも言いません。父さんが、貴方が誰を心に住まわせようが、誰を想うが、俺はそんな事気になんてしない。だから、不幸だと言っていいんです。彼に会えなくて、こんな家に縛られて、唯一のやり取りすら絶たれた今を、無理やり“幸せ”にする必要はない!』

『オブ。お前は、俺に不幸だと言って欲しいんだな』

『違う!実際に、貴方は不幸なんだ!』

 

 俺は父にムキになりながら言い募った。

 

 不幸だと言え!俺は不幸だ!もう二度とあの幸福で輝かしい日々には戻れない!この首都の冬に蔓延する曇天のような人生を、俺はこの後の全てを使って生きていく事になる。

 

 それは、お前だって同じだろう!ザン!