214:父の約束

『不幸ではない。俺は、“今”“此処”で幸福だ』

『なんでだ……そんな訳ない。ザン、お前は不幸な筈だ!こんな下らない家の事情やしがらみに絡め取られ、自由なんて一度も与えられなかった!全て家の言いなり!望むモノを見つけても手すら伸ばせない!それのどこが幸福だ!?言ってみろ!この俺に!俺は今、お前の一族のせいで、不幸だ!』

 

 俺は口にしながら、止めたくとも止められない感情で頭がグチャグチャになっていた。こんな事を言うつもりなど毛頭なかった。誰かのせいにするつもりなど一切なかった。

 ましてや、こんな子供のように父親に当たり散らす事など、考えてもいなかったのに!

 

『お前のせいだ!お前が俺をあんな場所に連れていかなければ!俺がこの家に生まれなければ!全部、お前のせいなのに!なんでお前は幸福なんて言える!?なんで!?どうして!』

『オブ』

 

 俺はいつの間にか目の前に立っていた筈の父に、頭を片手で抱えられ、抱きしめられていた。もう、身長差も余りない。俺の顔が、父の肩に触れる。

 父の着ている濃紺の上着が、何かで濡れていた。

 

 あ、これは俺の涙か。そうか、俺は、泣いているのか。

 

『悪かった、オブ。お前をここまで苦しめたのは、全部、俺のせいだ』

『うっ。あっ、あっ』

 

 子供の頃だって、父に泣きついた事など一度もなかった。

そのような関係では、一切なかったのだから。厳しく、冷たい、そんな人だと思っていた。だから、心の底から恐れていた筈だったのに。

 

『オブ、悪かった。苦しかっただろう。辛かっただろう。俺は最初、お前が此処に帰って来たと聞いた時、何かの間違いだと思った。俺はもう、お前は此処には帰って来ないと思っていたからだ。……けれど、お前の顔を見て分かった』

 

 それなのに、何故、今こうして“大人”を目前にした俺は、こうも父の腕の中で肩を震わせてしまっているのだろう。

 全てをこの人のせいにして、大声で泣き喚いて。こんなのは、それこそ子供の癇癪だ。

 

 この人のせいではない。分かっている。俺のこの苦しみも、悲しみも、これから襲ってくる曇天の人生も全て――。

 

『っあ、え、選べ、えらべ、なかった。お、俺は、おっ、俺の、弱さで、えらびっ、きれなかった。おれは、おれのっ、せいで、ふこうに、なっだ。もう、ぎえて、なくなってしまいだいっ。くるしい、つらい、もう、なにもかもっ捨てて、しまいだい』

『俺達はお前に、“此処”を選ばざるを得ない生き方しか、教えてこなかったんだと』

『ああああっ』

 

 父の優しい声が、俺の耳に響く。俺の負の感情を、全て自分のせいだと受け止めてくれるこの人は誰だ。

 この人は、本当にあの怖かった、厳しかった、あの父か。

 

『あの子はスルーの子だ。きっと、強かっただろう。オブ、お前の選びきれない未来を簡単に選び取って来ただろう。その狭間で、お前は、さぞ、辛い想いをしただろう。子供の頃のように簡単に大切なモノを選びきれない自分に、心底嫌気が差しただろう』

 

 なんで、こうも何も言わないのに分かってくれる。なんで、こうも逃げ道をくれる。どうして俺を責めない。

 

『オブ。俺は不幸などではない。この家に生まれたから、俺はアイツにも会えた。俺はあの2年間の日々の記憶がある。会えなかった時間は、お前が、こうして贈り物で繋いでくれた。そして、今日。この手紙と言葉で、俺は確信した』

『…………』

 

 父の澄んだ声が聞こえてくる。記憶と約束が父を幸福にしている。そのどちらも、俺はインから貰った筈なのに、俺はそれらすべてを、自ら捨ててしまった。

 

『スルーが、ヨルを好きだと言ってくれるこの世界が。俺は愛おしくてたまらない。俺は、アイツとの約束を、必ず果たす。その為に生きる今は、もう幸福以外の何者でもない』

『どんな、やくそくを……したんですか』

 

 インは俺にどんな約束をくれたっけ?泣く頭の片隅で思い出そうとしても、もう何も思い出せない。

 あの日の夜。インは確かに俺に“約束”をくれた筈だった。

 

———-おぶ、約束をしよう。

 

 イン、俺に何か頼んだよね?俺はあの時、インの言葉なんて聞きたくないと逃げたせいで、よく覚えていないんだ。出来れば、もう一度、インの口から聞かせて欲しい。

 

 

『お互い、家族を守り、幸せにした後。また、必ず会おうと、俺が必ず会いに行くと。そう約束した。だから、オブ』

『父さん……』

『お前がまず幸せにならなければ、俺は、約束を果たせない。今更自由と言われても、きっとお前を苦しめるだろう。けれど、父として、敢えて言おう』

 

 

———–オブ、自由に生きろ。

 

 

 その日、首都の曇天の空に、少しだけ晴れ間がのぞいた。