『何か、急ぎの用だったんだろう』
『そうです。今日の婚約者様の家族との食事会は、彼方側の急な予定で延期となりました』
『そうなのか』
これはツイている。今日、この予定だけが気がかりだったのだが、どうやら無くなったようだ。それも向こうの都合で。これは、大変俺にとっても都合がよろしい。
けれど、ここで余りにも俺の引きが早く、この執事に怪しまれでもしたら、それも面倒だ。面倒な事を、今は一つずつ潰しておきたい。
『延期、何かあったのか?』
『向こうのお家柄はご存じですよね』
『あぁ、確か。代々医師の家系で、確か父親は、帝国医師議会の理事をしているとか』
そう、だからこそ、祖父は俺と彼女の家との見合いを決めたのだ。俺が医師の資格を取る勉強をしていると、ビロウから聞いて。
———-お前、医者になる勉強までしてるんだって?凄いじゃないか。まったく、働き者で頭が上がらないよ。おじい様はそういうお前に目を付けて、首都にある帝国医師議会に入らせるとおっしゃっていた。
あんな事を言ってはいたが、全てお祖父様に俺の情報を流していたのはビロウだ。どうやら、ビロウは本当に出世になど興味がないらしい。
興味があるのは俺の嫌がる顔だけ、という事か。
ある意味、俺への執着が強すぎて
『気持ち悪い奴だな』
『どうしました?オブ様』
『いや、何でもない』
俺は、今もあの町で、もしかするとインの隣でニヤリとした笑みを浮かべているかもしれないビロウを思い出し、心底吐き気を覚えた。
早く、早く帰らないと。あぁ。そうだった、俺の帰る場所は此処じゃなかった。
それなのに、何故俺は、あぁもこの場所に縛られるように、こんな場所に来てしまったのだろう。大切な全てを置いてきてしまったのだろう。
『で?何故、延期になった?』
本当は心底どうでも良い事を、俺は尋ね続ける。話を聞きながら、今後の予定を頭の中で整理するくらいなら、いいだろう。
『本日、臨時で緊急の帝国医師議会の招集があったようです』
『へぇ。要人の誰かが病にでも倒れたか』
今日、此処を出て馬車を飛ばしても、町へ到着するのには7日は掛かる。これを最短にするには、もはや馬車を使わずに、自身で馬を走らせるのが一番だろう。
『いえ、そうではないようです。どうやら北部地方で発生していた、原因不明の疫病での死者が数千を超え始めたとのことで……』
『こないだまでは……まだ死者は出ていなかった筈じゃないか』
馬を手配と準備について思考を巡らせる俺の脳内へ、ズカズカと嫌な情報が流れこんでくる。今はそんな世界情勢に頭を割いている余裕は一切ない筈なのに。
何故だろう。無視、出来なくなってしまった。
『私も詳しくは分かりません。ただ、急激に死者が増えた事で、近隣諸国も対策を練らざるを得なくなってきたようです。今はモノや人の往来が激しい。もしかすると、この帝国でも感染者が出てくるかもという事で、』
『臨時の緊急議会の発足となった訳か』
死者が居なかったところに、急激に増えた死者数。
最初に俺が、まことしやかな噂のように北部での新種の病について聞いたのが、ここに来てすぐ。
1カ月前。そこから今現在、死者が爆発的に増えていると、この帝国の首都で緊急会議が成される所まで来た。
情報が伝わるまでの時差を考慮しても、だいたい2~3週間は、この事態に陥るまでにかかっている。
これは潜伏期間がある程度長い事、そして遅効性の疫病である事が予想される。確かに隣国でそのような莫大な死者数が出始めたとすれば、帝国も黙ってはおれないだろう。
そう、人と物の往来に、今は国境など殆どないのだから。
『……イン?』
『オブ様?』
執事の声に、俺はその時既に反応できなくなっていた。
人と物の往来の激しい場所。国と国の交通の要所。物流の要。
俺は、何故あの貧しかった、何の強みもないような村に、数年間も滞在した?
父は、俺は。
あの村を、交通の要所として発展させる為に、あの村に向かったのだ。そして、その目論見は当たり、今ではあの地は物と人の交通の要だ。
それこそ近隣諸国、北部地方の小国とのやりとりも盛んにおこなわれていた。
『わ、わかった。今日の予定、については、理解した。もう、下がっていい』
『オブ様?どうされました、具合でも』
『悪くない。俺は……少し、父と話をするので、下がってくれ』
俺は、最早表情を取り繕う事すら出来ないまま、けれど必死に言葉だけは紡いだ。
『…………』
イン、イン、イン。
早く、早く。会いたい。