あれ?あれれれれ?
俺は婚姻の宴の晩、いつものようにあの原っぱの所にある大岩へと向かった。けれど、そこにはいつも先に居る筈のヨルが居なかった。
大岩の上には誰も居ない。あるのは春の夜の月と星だけだ。
『ふうむ、早く来過ぎたか』
俺は腕を組みながらヒョコヒョコと右足に力を入れないように歩く。
この右足は、今日の婚姻の宴で、あのヨルの兄という男に36回も踏み抜かれてしまったせいで、こんな風になってしまったのだ!
あぁ!まったくまったく!痛すぎて様子を見ていたら、足の甲が真っ青だ!
『これから俺はヨルと月夜のダンスをしないといけないのに』
まったく、まったく!
そう、一人で腹を立ててる風を装ってみるが、まぁ、俺は別に然程腹を立てている訳ではなかった。
何故ならあの夕まぐれの男とのダンスは、まるで娘のニアと踊っているようで、それはそれで楽しかったのだ!
しかも、ニアとは違ってどうやら自分の踊りが下手な事を気にしているようなのだ!それも何だか新鮮で面白かった!ニアは全然気にしちゃいないからな!
『ただ、そろそろニアも来年10歳だからな。来月には村の小さい子らと、豊穣夜のダンスもあるし。そろそろ本気で教え込まんとなぁ』
けれど、あのニアだ。俺の言う事を聞くとは思えない。そして、何より俺はダンスが上手過ぎて、自然とニアの大変なダンスに合わせて踊りきってしまう。
そして、それは兄であるインや、ニアの事を大好きなフロムも同じだ。
皆が皆、ニアの奴隷のように合わせて踊る。
それに、
『父親と違って、あの子は初めてなのに、ニアのダンスに付いていっていた。あれは中々見込みがある』
今日、ニアと踊った夕まぐれの息子もそうだ。チラと踊っている所を見ていたが、何度かニアに足を踏まれている程度で、どうにか合わせて踊りきっていた。
『でも、それじゃあニアの為にはならん』
合わせてもらうのが当たり前。皆、自分の為に尽くすのが当たり前。
それではこの先、いつかニアは痛い目を見る。どうせ痛い目を見るなら、父親である俺の見ている前で見させてた方が良いだろう。
『あとは、オブ。あれを、ヨルはきちんと説教したか。してなかったら、俺がヨルを説教しないとな。……ヨル、遅いなあ』
別に、いつも約束をしている訳ではない。ないのだが、もう去年の冬から毎日、毎晩会っていたのだ。こうしてヨルが来ないのは、変な気分である。
しかも季節はもう春。寒すぎず、熱い訳でもない。
冬のような厳しい夜から、優しい優しい包み込むような夜になった。
『今日は、疲れた』
俺は強烈に襲ってきた睡魔に、ごつごつとした大岩の上に、ゆっくりと横になった。少しだけ、少しだけ眠るだけだ。
だから、このゴツゴツと寝にくい岩はちょうど良い。
『オブとインのダンスは……息が合っていて、すばらしか、ったなぁ』
俺は瞼を閉じながら、あの子らの踊りを思い出していた。お互いの事を、尊重し合った、とても素敵な踊りを踊っていた。次に相手がどう動くか、どう動いたら相手をもっと素敵な場所へ導けるか。
そういう想いの通じ合った良い、ダンスだった。
『俺も、ヨルとだったら……もっと上手に』
踊れるだろう。
俺はどのあたりからが眠りについた思考で、どのあたりまで意識があったのか分からないまま、コテリと意識を失っていたのだった。
————————————-
楽しい、楽しいな。
夜に踊る、ヨルとのダンスは。
俺を変わり者という者はいないし、誰も俺を怒らない。
親父も、俺を殴らない。
ヨルは俺を素晴らしいと言ってくれる。
楽しいダンスだ。こんなに、楽しいダンスは初めてだ。
————-
———
—–っい
誰かが俺を呼んでいる。
そりゃあ、もう大声で。そりゃあもう、焦ったような声で。
————
———
——いっ!ろ!
起きろ?
俺は起きている。今とても楽しい気分でヨルとダンスを踊っているんだ。
————
———
——おいっ!起きろ!
『起きろっ!スル―!なんて場所で寝ているんだ!』
『っ!!』
突然頬に走った、パシンという叩かれる感覚に、俺は一気に目を開いた。どうやら俺は随分と深く眠っていたようだ。
『あぁ、おはよう。ヨル。今は朝か?』
『……寝ぼける程寝ていたのか。まだ夜中だ。いつもより、時間は遅いが』
『ほほう、俺はそんなに寝ていたのか』
俺は大岩の上でガチガチになってしまった体をほぐすように、一気に体を起こした。立ち上がってみれば、やはり右足にだけジワリとした痛みが走る。
我慢できない事はない痛みだが、痛いのなんて、ないに越した事はない。痛い事はよくないことだ。
『今日は色々あったから、此処へは来るつもりはなかった。ただ、嫌な予感がして来てみれば』
『ほほう!俺が居るかもしれないと思って、わざわざ見に来てくれたのか!ヨルはまるで春の夜のように優しいな!』
『……風邪を引いたらどうする。大人なのだから、その辺りは自分でしっかりしろ』
『俺は風邪は引かん!引いた事に気付かないようにしている!』
『それはどんな理屈だ。しかも、実際には気付いていて、わざと気付かない振りをしているような言い方じゃないか』
———–その通りだ!
俺は痛いのも苦しいのも、気付かないようにしている。気付くとそれこそ面倒だし、気付いたって良い事は一つもないからだ!
『今日はヨルとダンスをするんだ!だから俺は此処に来た!さぁ!息子達には負けられない!俺達は俺達で素晴らしいダンスを月に披露しようじゃないか!』
俺は楽しい宴の後の楽しい気分のまま、大岩の上でヨルへと手を伸ばした。けれど、ヨルはそんな俺の手をチラリと見るだけで、一向に手を取ってくれない。
『なんでだ!?』
少し、いや、かなり悲しいのだが!この差し出された手の、誰からも手を取られぬ悲しみときたら!真冬の夜よりも寒いではないか!
『昼間はエアと踊っていただろう。俺はそれに腹を立てている』
『エア!?誰だソイツは!そんなヤツは知らん!』
本気で誰だ!エア!
そして、どうもヨルの様子がおかしい。自分で“腹を立てている”なんて宣言してくるなど、まるで、いつものヨルらしくもない。
『……ん?』
そう、俺がヨルの姿をじっくりと観察してみると、どことなく頬や耳や首が赤いように見受けられる。これは、アレか。あの酒を飲んでいたのか。
『お前が今日、一緒に踊っていた男だ。夕間暮れなどとお前は呼んでいたな。あれは、俺の兄だ』
『あぁ、アイツか』
あの俺の足を真っ青にした、あの下手くそで楽しいダンスの男。エア、エアと言われてもピンと来ない。やっぱりアイツは夕まぐれで十分だろう。
『なぁ、ヨル。お前は今日酒を飲んだのか?』
『さっきまで、エアに無理やり付き合わされていた。面倒この上ない。』
『じゃあ、今日はダンスはダメだな』
残念だが、今日はヨルとのダンスは諦めよう。酒を飲むと、楽しい気分にはなるのだろうが、どうしたって足元がおろそかになる。
一度飲んだが、あの状態でダンスは無理だ。
それに、これ以上俺の足を踏み抜かれてしまっては、真っ青を通り越して、足が緑色になってしまうかもしれない!
『何故だ』
『何故って、酒を飲むとフラフラになるからだ。フラフラでは踊れないだろ?』
『俺があの程度の酒で、踊りに支障をきたすとでも?』
よく見るとヨルの目はいつもよりおかしい。いつもの静寂に包まれたような目ではなく、今は何か騒がしいというか。
まぁ、簡単に言うと、物凄く酔っているようだ。いつもは俺が顔を近づけ過ぎると、ぶつかるだろうと避ける癖に、今は自分から俺の目の前に顔を近づけてくる。
心なしか体の距離もいつもよりほど近い。
そして、何より。
『ヨル、お前。酒臭いな』
そう、今日の夜は圧倒的に酒臭い。酒を飲むと、人間こんな臭いになるのか。まったく、いつものヨルの良い匂いはどこか遠くへ行ってしまっているではないか!
もったいない!
『あんな程度の酒で、そんな訳ないだろ』
『いや、実際くさい』
『……さっきは俺と踊れと言ってきていたじゃないか』
『あのな、ヨル。今日俺の足は、お前の兄さんに36回も踏み抜かれて、非常に痛いんだ。ほら、見て見ろ。この真っ青な足を』
『……36回』
『そうだ、だからこれ以上ダンスで足を踏まれたら困るから、ヨルとのダンスはまた明日だ』
俺は靴を脱ぎ、ヨルの方へと青くなった足の甲を見せてやる。時間が経つにつれて、青かった色から少しずつ外側が緑色になっているようにも見える。
なんてことだ!踏まれなくとも、既に黄緑色になっているところまで現れるとは!
気持ち悪い!これは可愛くないから俺の足じゃない!
『……あぁ、もう。まったく、まったく。ヨル。お前は自分の兄を恐れすぎている!今度、あの男に酷い事を言われたり、されそうになったり、バカにされた時は“こう”思うといい!』
『……なんと?』
ヨルは俺と俺の足の甲を交互に見つめながら、いつもより近い位置で俺へと体を寄せてくる。
あぁ、酒臭い。早くいつものヨルに戻ってくれないだろうか。
『“コイツはこんな事を言っているが1度のダンスで36回も相手の足を踏み抜く男でしかないんだ”と』
『1度のダンスで36回も』
『そうだ、1度で36回。これを頭の中に叩き込むように。そうすれば、もう』
———–怖くないだろ?
そう、俺がヨルに言い聞かせた時だった。俺の変色した足の甲に、何か柔らかいモノが押し当てられる感覚が襲ってくる。
『へ』
俺は目の前で起こっている信じられない光景に、一瞬思考の全てが止まった。止まって、そして、改めて認識した。
『あ、あ、あ、な、な、なに』
ヨルが俺の変色した足を右手で持ち上げ、そのまま、変色した部分に口付けを落としていた。しかも1度だけではない。2度、3度、4度と、俺がこうして見ている最中も、ヨルからの口付けは止まない。
『おい、ヨル。ヨル。やめろ。き、きたない。足は、きたないばしょだ』
『…………』
『っっっっっ!!な、舐めた!おい!今、舐めたな!?やめろ!病気になるぞ!っな、なにを笑っているんだ!おい!』
『っふふ。お前が焦っているのは、たのしいな』
俺の焦っている姿の、一体何が面白いのか、楽しいのか分からない。分からないが、今日のヨルはとことん変だ!俺の足に口付けを落とし、あまつさえ舌を這わせながら、肩を震わせて笑うのだから、たまらない。
あぁ、そうか!春だからか!春は人をおかしくさせる!
そして、酒も同じく人をおかしくさせる!
もう、絶対にあんなものは飲まない!
そして、ヨルにも飲ませない!
『1回のダンスにつき36回。覚えておこう』
『……あぁ、そうしてくれ』
俺は愉快そうに俺の足から手を離したヨルの隣で、ぐったりと疲れ果ててしまった。疲れ果て、ホワホワと笑うヨルを横目に見つつ、俺は更にその奥に、一つの人影を見た。
それは俺が昼間、共に踊った夕まぐれの男。
男はこちらを木の陰から見ていたようだったが、すぐにその場を後にした。
『スルー、どうした。また舐めてやろうか』
『……知らんぞ。俺はもう、知らんからな』
『なにがだ』
『……あぁぁ、もう。知らん訳にもいかんじゃないか!』
だって、ヨルの事だ。知らない訳にはいかない。
俺は、あの男の存在になど全く気付かず、酔っ払いもここ極まれりといった所まで来ているヨルの姿に、ひとまず、あの男がヨルに何か酷い事を言わない事だけを祈った。
何に、か。
ひとまず、月にでも祈ろう!
そんな、俺の祈りが月に通じたのか。
あの男はヨルに酷い事を言ったりはしなかったようだ。
何故分かるかって、そりゃあ、あの男!次の日!
つまり、今現在!俺の方へとやって来たからだ!
『よぉ。昨日の夜は俺の弟と随分お楽しみだったようだなぁ?』
——-この唾付き野郎の売春婦。
それも夕暮れ時に、夕焼けを背負って!!!
俺はどうやら”春”を売り歩く、素敵な奴だと勘違いされているらしい。
さて、どうしたものか。
番外編【金持ち父さん、貧乏父さん】続く