224:父というより、

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 イン、イン、イン、イン。

 

『インっ!』

 

 走る、走る、走る。

 

 どのくらい走り続けただろう。

 首都の実家を抜け出して、3日が経った。

 俺は馬を走らせながら、ただ、ただひたすらに前だけを見ていた。本当は寝る間すら惜しかったのだが、馬の脚も休ませなければならない。

 

 はやる気持ちのまま、走り続けられないのがもどかしい。

 けれど、あと少し。あと少しだ。

 

 冬とは言え、今年は雪がまだ降っていない。刺すような寒さはあるが、雪さえなければ、馬の脚も取られる事はないのだ。

 

『イン、愛してる。もう、手を離したりしないから』

 

———–また、笑ってくれないか。

 

 

 

      〇

 

 

 

『……父さん、教えてください。今、北部からの疫病の感染は……どこまで広がっていますか』

 

 

 俺はあの執事との会話のあと、すぐに家を出る準備に取り掛かった。最低限の荷物の準備を整え、今度は、集められるだけの情報を得るべく、父の元へと向かう。

 

 先程、みっともなく泣き喚いた父の元へ、今度は身勝手な我儘を通す為に向かったのだ。あぁ、子供の頃出来なかった分の“子供の駄々”を、今、俺は精算するように手足をバタつかせて通そうとしている。

 今の父には、何だって言える気がした。

 

 俺はこの人に“愛されて”いるから。

 

『オブ。やっぱり行くのか』

『ええ。俺は幸い、貴方達のように“会えない”約束を自分達に課していない。だから、自分の為、そして、貴方の為にあの場所へ走ります。貴方の出来ない事を、俺が代わりにしてきますから。だから、知ってる事を、全部教えろ。ザン』

 

 愛する者の為に、動く者と動けない者。

 この立場を有する時だけは、俺達は親子ではない。互いを最大限に理解し合える“友人”のようなものだ。

 だから、その時、俺は父を“父さん”とは呼ばなかった。

 ザン、と。彼の名を呼ぶ。

 

『わかった』

 

 父さんは、背もたれに自身の体を預け、静かに息を吐くと、1枚の報告書を引き出しから取り出した。

 

『もう、この帝国内にも既に感染者は出ている。今日の議会の後、きっとこの首都から順に、各地で関所の閉鎖が行われ始めるだろう』

 

 帝国医師議会の緊急議会の発足は、父にとってはある程度予想しえる事態だったようだ。そう、父は、俺よりも、いや、誰よりも早く北部での疫病について危惧していた。だからこそ、その情報の量は多く、そして信頼性もあった。

 

 故に、父から放たれる言葉を聞けば聞くほど、俺の中の焦りは大きくなる。

 

 北部での感染者の状況、その広がり方、近隣諸国の対応、そして、つい3日前。この帝国国土内でも、感染者の報告が上がった。

 

『感染者が出た地域は、軒並み北部地方に近い町や村だ。まだ報告は来ていないが、あの町は既に感染者が居るとみていい。あそこは、今や物流の拠点だ。出ない方がおかしい』

『…………』

 

 だからこその、帝国医師議会の招集。

 最早、事は北部だけによる、対岸の火事ではなくなった。もう火の粉は帝国領土内にも確実に及んでいる。国家間の交流の果てに成長を続けた人間達を、今はこうして嘲笑うように病魔が襲う。

 

 富む事が、富ませる事が、幸福の全ての根源であると信じた。

 そう、信じたのは俺であり、父だ。施しではない、自身の手で“富む”事が出来る仕組みを作れば、彼らは幸せになれると、そう思っていたのに。

 

『議会終了と共に、関所の閉鎖が行われ、人と物の流通はしばらく止まる。まずは感染者の増加を抑えこまなければ。北部は既に公表されている倍以上の死者が出ている。だから、オブ』

———-行くなら、もう今しかない。

 

 父の言葉を聞くよりも先に、俺は父に背を向けていた。

 

『行きます。もうしばらく会えなくなると思いますが、お元気で』

『……ああ。お前も元気で』

 

 俺は執務室の扉に手を掛けると、ドアノブを回す。回した時、一つだけ父の口にしていた言葉を思い出した。

 

———-もう、返事を渡せないのが……口惜しいな。

 

 あんな下らないモノを、あんなに愛おしそうな目で見つめる貴方のその想いに、俺も少しくらい報いてやりたい。

 

『何か、俺に言伝しておきたい事はありますか?』

『……オブ』

 

 父は一瞬だけ目を大きく見開くと、すぐに俺が何を言いたいのか察したのだろう。手元にあった報告書の切れ端を破り、サラサラと何かを書き出した。

 

『これを、スルーに渡してくれ』

『……彼は文字が読めない。俺が読んであげた方がいいですか』

 

 子供のように、早足で駆けて俺の元までやって来た父。そこに居たのは、もう“父”の顔をした男ではなかった。

 折り曲げられる事なく、中身が見える状態で俺に手渡された1枚の紙には、なんて事のない。けれど、どうしようもない程の、この男の本心が書き殴られていた。

 

 

———-スルー、会いたい。

 

 

『いい。伝わらなくていいんだ。だだ、俺はアイツに、何か残るモノを、渡したかっただけだから。手紙の返事は、手紙で出すべきだろう』

『……必ず、俺が届けます』

 

 会いたい、そうどんなに願っても、この人は行けないのだ。彼との約束、そして、俺以上にこの家に縛られ生きて来たこの人は。

 俺がこの人からして貰ったように、この人を解き放ってくれる人間はいない。

 

 幸福だ。

 こんな状況でもそう言えるこの人の元に、少しでも望む幸福が訪れますように。

 

 俺は父から想いの切れ端の載った手紙を受け取ると、すぐに部屋を飛び出した。

 誰からも怪しまれないように、荷物は最低限。コートを羽織り、屋敷から飛び出した。

 

 飛び出した俺の横を、早馬に乗った郵便飛脚が通り過ぎる。

 何か手紙が届いたようだが、そんな事に構っている暇はなかった。

 

 俺は一頭の馬に飛び乗ると、そこからは最早何の思考もなく走り続けた。ただ思い浮かぶのは、大好きで、大切で、宝物で、そして。

 

 俺の、愛している人。

 

『イン、イン、イン、イン』

 

 俺は背中に張り付く、不安を取り払うように走り続けた。