227:父であり、母であり、そして

———–

——–

—-

 

 

「おい、アボードはどうしたんだ」

「もう試験は始まってるんだよな?」

「なんで兄貴は騎兵しないんだ?」

 

 

 周囲が騒がしい。

 

 それもそうか、と。男は鳴り響く心臓を抑え、思った。

 

 「どうした、どうした」と徐々に騒がしくなる、そんな周りからの声すら、今の航空騎馬を前にして固まる男にとっては遠く感じた。

空間が歪むような感覚。聞こえてくる音すら、まっすぐには届かない。

 音も、視界も、心も、全てが歪む。

 

 早いところ騎兵して、空へと舞わなければ。

 あの、在りし日の父のように、大空を駆け回る自身を何度、夢見た事だろう。

 それなのに、どうしても高い場所に立つと、足がすくむ。呼吸が出来なくなる。視界が霞むように奪われる。

 

 こんな状態で、航空騎馬になど乗れる筈もない。ましてや乗るだけではなく、部下の命を抱えた状況で、命のやり取りなど。

 わかっていた筈だったのに、それでも憧れは止められず、こうして騎士になどなってしまった。

 

 父親が誇りだった。過去の記憶を並行して持っていて尚、あの父親と呼ばれる人の事は、純粋に、心から尊敬できた。

 

———-とうさん。

 

 心の中で呟いてみる。そろそろ上官から声が掛けられるだろう。

 

「どうしたんだ。大丈夫か?」と。

 その時、自身は一体何をどう答えればいいだろうか、と男はぼんやりと思った。

 

 出来ません、と。乗れません、と。

 言うしかないだろうか。

 

「…………はぁ」

 

 深く、深く、息を吐く。溜息ではない。

 それは、深い、深い、呼吸。

 

 以前の世界で思い知った。

 血と煙の臭いの渦巻くあの場所で戦い続けるには“支え”が必要だ。家族や愛しい者がそれに当たる者もいるかもしれないが、出来れば、共に戦場で肩を並べる相手でそういう者が居れば、心は更に救われる。

 

 傍に居る人間が、最も人を強くする。支えとなれる。だって、傍に、居るのだから。

 

「…………」

 

 “支え”は強固でなければならない。

 そんな“支え”が男にはあった。先輩でもあり、上官でもある一人の男だった。

 

 男はずっと、その上官の立派な背中に、救われてきた。支えられてきた。死なんて怖くないと本気で思っていた。

 

 けれど、最後の出立の命が下された時、名を呼ばれた時、全てが崩れた。

 男と、男の上官の名が呼ばれた。

 それは、死を宣告されたのと同義だ。

 

 お国の為に、と。男もその上官も涼しい顔で受け入れた。いつかはこんな日が来る事も、理解していたからだ。

 むしろ、共に死ねる事に少しばかりの喜びすら感じていたような気もした。

 

 けれど、出立の日。

 男は最後に心の支えだった彼と話をしたいと、彼を探し回った。

 どんな言葉を交わすかは置いておいて、それが自身の誰かと交わす最後の言葉となり得る事は分かっていたから。

 最後は感謝と、尊敬の念を、彼に伝えて終わりにしたかったのだ。

 

 けれど、男は目撃してしまった。

 

 男が死を前に立たされた時、それまで全ての支えとしていた“上官”の男が、影で大声を上げて泣く姿を。

 “死にたくない”と大声で泣きわめいていた。

 

 恐ろしい戦場での心の支え。

 憧れの全て。

 

 それが、最後の最後で崩れた。

 

 あの立派だった上官の男が、死を前に恐怖に打ちひしがれて、子供のように泣きわめく姿に、男はハッキリと“裏切られた”と思った。この男のようになろうと、必死に戦場を生きてきて、最後の最後で裏切られた。

 

 勝手な話だが、男は実際にそう思ってしまったのだ。

 崩れた支えと、目の前にある、揺るぎようのない自身の“死”。

 

 男は急に怖くなった。否、本当はずっと怖かったのだ。その恐怖を、見ないように、考えないように生きてきた。

 強い“誰か”を心の支えとして勝手に使って、それが崩れてしまった時、男は不安と恐怖に打ちひしがれたのだ。

 

 

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 

 

 男は最期の時、大空を駆けながら恐怖に包まれていた。

 そして、あの上官の男が、泣き叫ぶ合間に口にしていた言葉が耳の奥で鳴り響いた。

 

———母ちゃんっ!

 

 あの支えであった上官の男は自身の母を想って泣いていた。その言葉に、男も思い出してしまった。

 あの、優しくも暖かく、可愛らしく、そして美しかった、もう居ない“母”の姿を。

 

『おかあさん』

 

 それが男の最期の言葉にして、残った想いの残滓となった。

 

 

「アボード、どうした。具合でも悪いのか?」

「っ!」

 

 とうとう声が掛けられてしまった。

 何を、どう言おう。

 

 ここで、出来ませんと口にしてしまった場合、ここに集まった、この自分自身を“兄貴”と慕う、多くの部下や後輩達を、あの時の自身のような“裏切られた”気持ちにさせてしまうかもしれない。

 不動の支えになりたかった。父のように立派な騎士になりたかった。仲間を恐怖から、救える人間になりたかった。

 

 けれど――。

 

「あーっ!!!」

 

 一人の叫び声が、演習場を席巻する程木霊した。

 

「忘れてたっ!めちゃくちゃ忘れてた!!良かったー!思い出せて!おーい!兄貴―!」

「おい、お前!バイ!うるさいぞ!」

「スミマセン!ちょっと兄貴に伝言があるんで、ほんっと!スミマセン!通してー!」

 

 男は集まった部下や後輩や仲間達の山の中から、一人の聞き慣れた若者の声がするのを聞いた。その声は、この緊張感に包まれ、どこかピンと張りつめていた空間を、容赦なく切り裂いていく。

 

 けれど「とおしてー!」と男の視界に入って来た、その赤毛の若者は自身の切り裂いた、その空気感の中で何も気にした様子もなく笑顔で現れた。

 

「おーい!兄貴―!」

「おい!試験前だぞ!バイ!黙れ!」

「ちょっと待ってクダサイよー!上官!ちょっと、アボードの兄貴に伝言があるんです!」

「後にしろ!」

「ダメなんだって!アウトから飛ぶ前に言えって言われてんだから!」

「誰だ!アウトって!?」

 

———アウト。

 

 目の前で繰り広げられる、一切予想もついていなかった後輩と上官の応酬に、聞き慣れた名が入り込んで来た。

 それまで、ぼんやりとしていた男の思考が、一気に現実世界へと呼び込まれる。

 

「アウトっていうのは、兄貴の兄貴―!」

「意味の分からん事を言うな!これ以上、騒がしくするようなら、お前は此処から叩き出すからな!?」

「えっえええ!?嫌だ!俺は兄貴の試験を見るんだ!絶対に出ていかないっす!」

 

 どこか別の場所で「バイ!俺の試験も見ろよ!」と騒ぐ声が聞こえるが、男にとっては、そんな事は最早どうでも良かった。

 

「おい、バイ」

「アボード?」

 

 男は赤毛の若者が口にした“伝言”に、嫌な予感を感じた。

 不安を吐露して、みっともなく兄に抱きしめられてから、ずっと、男は兄と会う事を避けていた。

 あの、死にやすい、死に誰よりも近くなってしまった兄。

 見ていると、不安になる。失う恐怖に駆られてしまう。

 

 

——–なぁ、アボード。もし、さ。また俺が鳥みたいに飛べるんだって言って、バカな事し始めたらさ

——–あの時みたいに、とんで来てくれるか?

 

 

 あの日、そう優し気な、まるで父のような顔で問うてきた、兄の姿が頭を過る。

 

———-よしよし。良い子良い子。お前なら出来る。何でも出来る。悲しくなったら兄ちゃんの所に来い。兄ちゃんはいつでもお前の味方だよ。

 

 そして、可笑しな事に、父のようだと思った矢先に掛けられたのは、まるで遠い昔、大好きで堪らなかった、あの可愛らしい母親のような言葉。

 

——-お母さん、できる、できる、して。

 出来る出来る、貴方なら出来るわ。

 

 母に出来ると言って貰えれば、それこそ何でもできる気がした。出来る所を、見ていて欲しいと思った。

 

「アウトは、なんだって?」

 

 掠れた声が男の口から放たれる。喉はカラカラで、それは、それまで飛ぶ事への恐怖に駆られていた時とは、また違った緊張感と恐ろしさだった。

 

「えっと、何だったっけ?……そう、鳥!鳥だ!」

———–アボード!みてろ!おれは、とりみたいにとべるんだ!

 

 そう、赤毛の若者の口から放たれた言葉に、男は一瞬で全てを理解した。理解した瞬間、自身の兄が好んでよく登っていた時計台の方へと顔を向ける。

 

 向けると同時に、先程まで石のように動かなかった自身の体が弾かれたように動き出す。航空騎馬へと飛び乗り、手綱を引く。引いた瞬間、地面からフワリと空へと飛びあがった。

 その浮遊感が、一瞬、男の心をすくませようとした。

 

「っ!あの、バカが!!」

 

 けれど、すくんでいる暇はもう、一片もなかった。

 一人の人間が、時計台から飛び降りるのを、その目で目撃してしまったからだ。

 

 

「テメェが!!」

 

———お前は自分が死ぬのと、俺が崩れ死ぬの、どっちが怖い?

 

「飛べるワケ、ねぇだろうがっ!!」

 

 そんなの、決まっている。

 大事な人の“死”が、何よりも、怖い。

 

 男は、

 

 

 アボードは、光のような速さで、兄の元へと飛んだ。