228:生者が死者に出来る事

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 どのくらい、此処に居ただろう。

 

『イン』

 

 俺は一人、インと俺がいつも一緒に過ごしていた、森の奥の大穴の中に居た。もう、日も落ち、辺りは真っ暗だ。

 

 『イン、どこ』

 

 膝を抱え、呟くように、縋るように尋ねる。

 けれど、その問いに、返事はない。

 

 もう、絶対に帰ってこない。

 

『イン、あの時、約束ねって、言った。あれ、何だっけ』

 

 インが、死んだ。

 否、死んでいた。

 俺が到着する直前に、納屋で一人、死んでしまっていた。

 

『イン、ねぇ。俺にも、伝染して。連れていって』

 

 俺の懇願に、答えてくれる優しい声は、もうこの世のどこにも居ない。

 

 

 

 

      〇

 

 

 

 

 走って、走って、走って、走って。

 俺が町に到着したのは、丸4日目の昼の事だった。

 

 『イン、イン、イン、イン』

 

 俺がこの町を出た時とは、もう一変してしまったような暗い町の様子に、嫌な予感は既にあったのだ。

 村の入口に、酷使し過ぎて疲れ果ててしまった馬を繋ぐ。繋ぎ、水を飲ませる。

 

『疲れたろ、しばらく休んでな』

 

 何故か、焦る気持ちとは裏腹に、俺は時間を稼ぐように、乗って来た馬を撫でた。

 そして、自分の中に湧き上がってくる不安を抑えつけながら、ゆっくりと町を歩いた。

 

『……フロム』

 

 静まり返った町で、偶然フロムを見つけた。フロムはどこか茫然とした様子で、ぼんやりと広場の片隅で空を眺めていた。

 明らかに様子がおかしい。フロムがこんな風になった所を、俺は出会ってから一度だって見た事がなかったのだ。

 

 嫌な予感が、更に募る。

 

『フロム!』

『……っオブ?』

 

 その予感を振り払うかのように、俺はフロムの名を大声で呼んだ。

 フロムは俺の顔を見るや否や、俺の元に駆け寄ってくると、次の瞬間には、力強く俺の体を抱き締めてきた。

 

『オブっ!オブ!オブ!』

『おい、フロム』

 

 成長し、大きくなった友人が、あらん限りの力で俺を抱き締める。けれど、俺の名を呼ぶ声は涙で震えていた。

 抱き締め『聞いたのか?』と、力無い震えた声で問うてくる。

 

———-聞いたのか。インの事。

 

『っ』

 

 何を、なんて聞き返す余裕はなかった。

 俺は抱き着いてくるフロムの体を、乱暴に引きはがすと一目散に駆けだした。駆け出した先は、インの家。

その家の前には、多くの人間が集まっており、その中にはインの父親であるスルーも居た。というか、その人だかりの中心が彼だった。

 

『スルーさん?』

『……オブ』

 

 憔悴しきった顔だった。この人は、こんな顔も出来たのか、と。この辺りから、俺の心は焦るのも逸るのも止めていた。

 何も、感じないようにと、自衛本能が働いているように、心が凪ぎ始めていたのだ。

 

『オブ様?』

『領主様?』

 

 そう、俺を見た町の住人達が俺の周りに集まる。皆、俺に対して何かを期待するような目を向けている。きっと、流行り病に対する対抗手段でも、俺が持って来てくれたのだとでも思ったのだろう。

 

『…………』

 

 ここに来る途中、町の住人の家々に、弔の黒い布が掛けられているのを見た。あの黒い布は、人が死んだ時、哀悼痛惜の想いを込めて飾られる、この地域特有の風習だ。

 俺もこの地に長い間、滞在していた事もあり、その布は何度も、何度も目にしていた。

 

 けれど、こんなに見る家、見る家、全てに黒い布が掛けられている光景など、初めてだった。不吉で、嫌な予感は、既にフロムに会う前からしていたのだ。

 

 インの家の方から、悲鳴のような女性の泣き声が響いている。

 ニアか、母親か。

 インの声ではない事は確かだ。

 

『スルーさん、インは?』

『……もう、インの蹴った石がお前の所に飛んで行く事もない』

『インはっ!?』

『生きている時に感じる事の出来る不幸なんて、たかが知れている』

『インはどこだと言っている!』

 

 俺の怒声に、町の住人達がザワめきの後、俺とスルーさんから離れる。俺がインと仲が良かった事を知らぬ者など、此処には居ない。

 なにせ、5年近く、俺はこの地で、ここの住人達と共に生きて来たのだ。

 

 すすり泣く声が、拒否しても俺の耳に響いてくる。

 

『オブ。もう分かっているんだろ?インはもう居ない。どこにも、居ない』

 

 聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない。

 

『“イン”はどこだ!?』

 

 俺は表情を失くしたスルーさんの胸倉を掴むと、締め上げるようにその手に力を籠める。俺の言っている意味が、分からない訳がない。何も感じないように必死に自衛していた心が、徐々に波に煽られ始めた。

 

『“イン”に会わせろ!“イン”はどこに居る!?』

『アレには近づくな。アレはまだ死んで間もない。となれば、伝染るかもしれない。お前も、何もこの病気の情報は持っていないんだろ』

『お前っ!?』

 

 アレ。

 感情のない声と共に放たれたその言葉には、既に自身の“息子”だったモノとしての愛着を一切なくしていた。

 

『何度言えば分かる。もう、インは居ない。死者には会えない。お前の会いたがっている“者”は、既に“物”だ。会っても意味がない』

『っスルー!お前は!分かったような顔で!分かったフリをするなっ!さぁ、答えろ!インはどこだ!』

 

 平行線を辿る言葉の応酬の中、スルーさんを捻り上げる俺の手はじょじょに力を増していく。

 

『オブ様!』

『おやめくださいっ!』

 

 そう、周囲の人々が俺を止めに掛かろうとした時だった。

 

『……オブ』

 

 いつの間にか、インの家の扉が開いていた。

 そこに居たのは、目を真っ赤にして泣きはらした表情を浮かべる、ニアだった。あの時、俺に堂々と食ってかかったニアは、もうどこにも居ない。

 

 居るのは、家族を亡くして悲しみに打ちひしがれる、一人の女の子だけだった。

 

『お兄ちゃんに、お別れを言って。お兄ちゃんね、最期、一人ぼっちだったのよ』

 

 そう言って、もう自分で言った皮肉で笑うように、ニアは微笑んだ。

 微笑んで指さした先にあるのは、小さく、古く、そして汚い、納屋だった。

 

『イン?』

『誰も、だぁれも、いつお兄ちゃんが死んだかも知らないの』

『……』

『私達が、家から、追い出したから』

 

 あんなところに居るのか?

 一人で?最期がいつ、どんなだったか、誰にも知られぬまま。

 

 逝ったとでも言うのか。

 

 俺は掴んでいたスルーさんの胸倉から手を離すと、もう、吸い寄せられるように納屋の方へと向かった。

 

『オブ、行くな。生者が死者の為に出来る事はない』

『あ』

 

 力なく掴まれた俺の腕に、俺は心の中に立っていた大波が一気に引いて行くのを感じた。今はもう、静かだ。

 

『スルーさん、貴方に渡す物があった』

『オブ?』

 

 俺は自身の上着のポケットから、小さな紙の切れ端を取り出すと、俺の腕を掴むスルーさんへと差し出した。

 突然、差し出された紙切れに、それまで感情などまるで消していたような顔をしていた彼に、一瞬の戸惑いの色が浮かぶ。

 

『父からです』

『っ!』

 

 俺の言葉に、スルーさんの表情が一気に歪む。歪んで、彼はたった今“ひと”に戻った。戻ってきてしまった。引きずり戻してしまった。

 淡々と事実のみを受け止め、するべき事をこなす“人形”だった彼を、悲しみの渦巻く“ひと”へと戻す。

 

 父が。

 

『どうぞ。父からの手紙です。意味が知りたければ、いつか父にでも聞いてください』

『……ヨル』

 

 夜。

 何を言っているのか、俺には分からない。分からないが、父と同様に、1枚の紙切れを、宝物のように両手で包み込む彼の姿に――。

 

 俺は、心底、嫉妬した。

 

 会いたい人が、この世界に居る人々。

 その全ての人間に、俺は、強い嫉妬の炎を燃やす。

 

 最早、叶わぬ願いとなってしまった俺には、嫉妬してもしきれない。