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どのくらい、此処に居ただろう。
『イン』
俺は一人、インと俺がいつも一緒に過ごしていた、森の奥の大穴の中に居た。もう、日も落ち、辺りは真っ暗だ。
『イン、どこ』
膝を抱え、呟くように、縋るように尋ねる。
けれど、その問いに、返事はない。
もう、絶対に帰ってこない。
『イン、あの時、約束ねって、言った。あれ、何だっけ』
インが、死んだ。
否、死んでいた。
俺が到着する直前に、納屋で一人、死んでしまっていた。
『イン、ねぇ。俺にも、伝染して。連れていって』
俺の懇願に、答えてくれる優しい声は、もうこの世のどこにも居ない。
〇
走って、走って、走って、走って。
俺が町に到着したのは、丸4日目の昼の事だった。
『イン、イン、イン、イン』
俺がこの町を出た時とは、もう一変してしまったような暗い町の様子に、嫌な予感は既にあったのだ。
村の入口に、酷使し過ぎて疲れ果ててしまった馬を繋ぐ。繋ぎ、水を飲ませる。
『疲れたろ、しばらく休んでな』
何故か、焦る気持ちとは裏腹に、俺は時間を稼ぐように、乗って来た馬を撫でた。
そして、自分の中に湧き上がってくる不安を抑えつけながら、ゆっくりと町を歩いた。
『……フロム』
静まり返った町で、偶然フロムを見つけた。フロムはどこか茫然とした様子で、ぼんやりと広場の片隅で空を眺めていた。
明らかに様子がおかしい。フロムがこんな風になった所を、俺は出会ってから一度だって見た事がなかったのだ。
嫌な予感が、更に募る。
『フロム!』
『……っオブ?』
その予感を振り払うかのように、俺はフロムの名を大声で呼んだ。
フロムは俺の顔を見るや否や、俺の元に駆け寄ってくると、次の瞬間には、力強く俺の体を抱き締めてきた。
『オブっ!オブ!オブ!』
『おい、フロム』
成長し、大きくなった友人が、あらん限りの力で俺を抱き締める。けれど、俺の名を呼ぶ声は涙で震えていた。
抱き締め『聞いたのか?』と、力無い震えた声で問うてくる。
———-聞いたのか。インの事。
『っ』
何を、なんて聞き返す余裕はなかった。
俺は抱き着いてくるフロムの体を、乱暴に引きはがすと一目散に駆けだした。駆け出した先は、インの家。
その家の前には、多くの人間が集まっており、その中にはインの父親であるスルーも居た。というか、その人だかりの中心が彼だった。
『スルーさん?』
『……オブ』
憔悴しきった顔だった。この人は、こんな顔も出来たのか、と。この辺りから、俺の心は焦るのも逸るのも止めていた。
何も、感じないようにと、自衛本能が働いているように、心が凪ぎ始めていたのだ。
『オブ様?』
『領主様?』
そう、俺を見た町の住人達が俺の周りに集まる。皆、俺に対して何かを期待するような目を向けている。きっと、流行り病に対する対抗手段でも、俺が持って来てくれたのだとでも思ったのだろう。
『…………』
ここに来る途中、町の住人の家々に、弔の黒い布が掛けられているのを見た。あの黒い布は、人が死んだ時、哀悼痛惜の想いを込めて飾られる、この地域特有の風習だ。
俺もこの地に長い間、滞在していた事もあり、その布は何度も、何度も目にしていた。
けれど、こんなに見る家、見る家、全てに黒い布が掛けられている光景など、初めてだった。不吉で、嫌な予感は、既にフロムに会う前からしていたのだ。
インの家の方から、悲鳴のような女性の泣き声が響いている。
ニアか、母親か。
インの声ではない事は確かだ。
『スルーさん、インは?』
『……もう、インの蹴った石がお前の所に飛んで行く事もない』
『インはっ!?』
『生きている時に感じる事の出来る不幸なんて、たかが知れている』
『インはどこだと言っている!』
俺の怒声に、町の住人達がザワめきの後、俺とスルーさんから離れる。俺がインと仲が良かった事を知らぬ者など、此処には居ない。
なにせ、5年近く、俺はこの地で、ここの住人達と共に生きて来たのだ。
すすり泣く声が、拒否しても俺の耳に響いてくる。
『オブ。もう分かっているんだろ?インはもう居ない。どこにも、居ない』
聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない。
『“イン”はどこだ!?』
俺は表情を失くしたスルーさんの胸倉を掴むと、締め上げるようにその手に力を籠める。俺の言っている意味が、分からない訳がない。何も感じないように必死に自衛していた心が、徐々に波に煽られ始めた。
『“イン”に会わせろ!“イン”はどこに居る!?』
『アレには近づくな。アレはまだ死んで間もない。となれば、伝染るかもしれない。お前も、何もこの病気の情報は持っていないんだろ』
『お前っ!?』
アレ。
感情のない声と共に放たれたその言葉には、既に自身の“息子”だったモノとしての愛着を一切なくしていた。
『何度言えば分かる。もう、インは居ない。死者には会えない。お前の会いたがっている“者”は、既に“物”だ。会っても意味がない』
『っスルー!お前は!分かったような顔で!分かったフリをするなっ!さぁ、答えろ!インはどこだ!』
平行線を辿る言葉の応酬の中、スルーさんを捻り上げる俺の手はじょじょに力を増していく。
『オブ様!』
『おやめくださいっ!』
そう、周囲の人々が俺を止めに掛かろうとした時だった。
『……オブ』
いつの間にか、インの家の扉が開いていた。
そこに居たのは、目を真っ赤にして泣きはらした表情を浮かべる、ニアだった。あの時、俺に堂々と食ってかかったニアは、もうどこにも居ない。
居るのは、家族を亡くして悲しみに打ちひしがれる、一人の女の子だけだった。
『お兄ちゃんに、お別れを言って。お兄ちゃんね、最期、一人ぼっちだったのよ』
そう言って、もう自分で言った皮肉で笑うように、ニアは微笑んだ。
微笑んで指さした先にあるのは、小さく、古く、そして汚い、納屋だった。
『イン?』
『誰も、だぁれも、いつお兄ちゃんが死んだかも知らないの』
『……』
『私達が、家から、追い出したから』
あんなところに居るのか?
一人で?最期がいつ、どんなだったか、誰にも知られぬまま。
逝ったとでも言うのか。
俺は掴んでいたスルーさんの胸倉から手を離すと、もう、吸い寄せられるように納屋の方へと向かった。
『オブ、行くな。生者が死者の為に出来る事はない』
『あ』
力なく掴まれた俺の腕に、俺は心の中に立っていた大波が一気に引いて行くのを感じた。今はもう、静かだ。
『スルーさん、貴方に渡す物があった』
『オブ?』
俺は自身の上着のポケットから、小さな紙の切れ端を取り出すと、俺の腕を掴むスルーさんへと差し出した。
突然、差し出された紙切れに、それまで感情などまるで消していたような顔をしていた彼に、一瞬の戸惑いの色が浮かぶ。
『父からです』
『っ!』
俺の言葉に、スルーさんの表情が一気に歪む。歪んで、彼はたった今“ひと”に戻った。戻ってきてしまった。引きずり戻してしまった。
淡々と事実のみを受け止め、するべき事をこなす“人形”だった彼を、悲しみの渦巻く“ひと”へと戻す。
父が。
『どうぞ。父からの手紙です。意味が知りたければ、いつか父にでも聞いてください』
『……ヨル』
夜。
何を言っているのか、俺には分からない。分からないが、父と同様に、1枚の紙切れを、宝物のように両手で包み込む彼の姿に――。
俺は、心底、嫉妬した。
会いたい人が、この世界に居る人々。
その全ての人間に、俺は、強い嫉妬の炎を燃やす。
最早、叶わぬ願いとなってしまった俺には、嫉妬してもしきれない。