229:飛べ、飛べ

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———-アウト、空は気持ちいいかい?

 

 

 

 そう。頭の奥で、声が聞こえた気がした。

 けれど、その声に返事をする事は叶わなかった。

 何故なら――。

 

「おい!?このドクソ!?お前、死にてぇのか!?あ゛ぁ!?」

「あぁ、アボード。久しぶりだなぁ」

 

 俺は時計台の半分程を落下したところで、アボードに抱きかかえられていた。

 そこには、これでもかという程、眉間に皺を寄せ、こめかみをヒクつかせる弟の姿。けれど、その顔の奥の奥には、あの大好きだった父親の影が見え隠れする。

 

 あぁ、本当にアボードは、お父さんそっくりだ。

 大好きだった、お父さん。今も、そしてこれからも、大好きなお父さん。

 

「久しぶりじゃねぇ!!お前!?本気で!何やってんだ!おい!」

「いやぁ、今日も突然飛べるような気がしてさ」

「テメェ……本気で死にてぇんだったら!今からでも此処から落としてやろうか!?」

「いや!それは止めろ!まだこの地点だと、死にやすくない人でも確実に死ぬから!!」

「上等だ!死ね!俺が救ってやった命だ!どう扱おうと俺の勝手だろうが!」

 

 空中で行われる兄弟喧嘩。

 どうやら、先程、俺が落ちて行く様を見ていた人々も、何が起こったのか分からないのだろう。時計台の上からも騒がしい声が聞こえる。

 

 俺は、今すぐ時計台の上へと戻って「ほら!大丈夫だっただろ?」と、得意気に他の客らに言ってやりたい気分だった。

 けれど、今はそんな無粋な欲望を募らせている場合ではない。

 

「なぁ、アボード。お前が教えてくれたんじゃないか。二度ある事は三度あるし、三度目は正直なんだろ?」

「はぁ!?」

「俺はまた落ちたけど、今度こそさ!俺、飛べたな!鳥みたいに!お前も、俺も!飛んでるんだぞ!見てみろよ!」

 

 そう言って、アボードに抱きかかえられたまま、俺は遠くを見た。空を飛びながら、遠く、遠くを。

 鳥みたいに飛べた。

 

 これで、俺はもう“行きたい場所”に向かえる。

 

「アボード!お前、お父さんみたいだったよ!」

「…………んな訳、ねぇだろ」

「そんな訳あるんだ!俺、さっきお父さんが飛んで来てくれたのかと思ったんだからな!」

———-格好良かったよ!

 

 俺が笑って言うと、その瞬間、アボードは泣きそうな表情を浮かべて、そして、実際。

 

「……父さん」

「ほら、出来た。出来た。お前なら出来ると思ってたよ。俺、ちゃんと見てたよ。よしよし。できたできた」

 

 泣いた。

 先程まで、どれほどのモノを抱え込んでいたのだろう。どれほど張りつめていたのだろう。

 怖かっただろう。苦しかっただろう。

 

「父さん、お母さん」

 

 空の上で、アボードは手綱を握る手を、未だに恐怖に震わせながら、俺の肩に顔を預けて、泣いた。

 

 

 

       〇

 

 

 

 その後、俺達はそりゃあもう大変だった。

 否、大変な事態を引き起こした。

 

 しばらく、俺の肩に顔を預けて泣いていたアボードだったが、状況が状況だ。試験役として飛んでいた、他の騎馬兵が俺達の元にやって来て、”それ”を目撃された。

 

『ちょっ!どうしたんだ!?アボード!?』

『怪我でもしたのか!?』

『何があった!?』

『ていうか、ソイツは一体誰だ!?』

 

 群がる大量の航空騎馬に乗った騎士達。俺はと言えば、こんな屈強な男達に、そこそこ強烈な視線を向けられ『あ、あの』と、時計台を飛び降りた時の勢いは、一切消え失せてしまっていた。

 

 俺にとっては、飛び降りるよりも、俺の事を睨んでくる騎士達の方が、ずっとずっと怖かったのだ。

 

『あ、アボードの。兄の、アウトです。いつも、おとうとが、おせわに、なっております』

 

 と、どうにか口にしてみたは良いものの、そこに居る全員が『はぁ!?』と更に俺を睨んでくるだけで、誰も俺の言う事を信じてはくれなかった。

 そんなに俺はアボードと似ていないだろうか。兄は無理でも、せめて兄弟としての認識くらいは、されて良いのではないだろうか。

 

 アボードの涙を目撃した事が、同僚の騎士達からすれば、相当な衝撃だったのだろう。俺を抱え、騎馬にまたがって飛びながら、静かに涙を流すアボードを前に、皆どうすれば良いのか分からないと言った様子だった。

 

『アボード、とりあえず降りようぜ』

 

 俺の言葉に、アボードは未だに震える手を、必死に動かしながら黙って手綱を引いた。

 その手に、俺はアボードの手に自分の手を重ねる。震えは止まらなかったが、一人で震えさせるよりは良い。

 

 ダメか。

 

 あの一瞬、落下する俺を受け止める為だけに走ってくれたアボードだったが、やっぱり高い所は怖いのだろう。それもそうだ。こんな1度の成功体験だけで乗り越えられるならば、きっとアボードはこれ程までに苦しんでいない。

 

 逆に言えば、こんなに怖いのに、よくぞ飛んで来てくれたと、本当に抱きしめて頭を撫でてやりたいくらいだ。アボードは、お父さんのように、どこまでも優しい。

 

 

『えっ!?アウト!なんで此処に居んの!?あっ!教官!あれ!あれが兄貴の兄貴のアウトっす!』

 

 

 アボードと共に降り立った、訓練場で聞いた第一声は、そんなバイからの気の抜けるような叫び声だった。

 けれど、お陰で屈強な見知らぬ男達ばかりを前に、若干の人見知りで足を震わせていた俺は、少しばかり復活する事が出来た。知らない人の中に居る、知った顔の有難さよ。

 

『あれが、アボードさんの兄貴?』

『いや、嘘だろ?』

『あんなのが?』

 

 おい、聞こえてるぞ。“あれ”とか“あんなの”とか、騎士って奴らは、揃いも揃ってシ失礼極まりないな!?

 

『なぁ、アボードさんどうしたんだ?』

『兄貴、泣いてる?』

『え、今どんな状況?』

 

 そして俺の存在を疑問視する声に引き続き聞こえてくるのは、もちろん航空騎馬の上でグッタリと馬の背に体を預け、目元を抑えるアボードに対するもの。

 どうやら、余りの恐怖と、無事下りてこられた事に対する安心感で、体に力が入らないようだ。

 

『おい、アボード。大丈夫か。下りられそうか』

『……ああ』

 

 俺は小さな声で、唸るように頷いたアボードと共に航空騎馬から降りる。馬というのは意外と高さのある乗り物なのだな。

 俺はひょいと先に馬の背から飛び降り、クルリと振り返ってアボードを見上げた。けれど、アボードは本気で体に力が入らないのか、下りようとした体を上手く支えきれず、そのまま、体ごと地面に落下してしまった。