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『イン、お待たせ』
俺は、その古い小さな納屋の戸を開くと、そこに横たわる一人の人間の元へと歩を進めた。
ソレは確かに、スルーさんの言う通り、もうインではなかった。
インだったモノは納屋の隅、藁の詰みあがった場所に、一人で横たわっていた。
『ねぇ、1カ月も会わなかったのなんて初めてだよね?俺の顔、忘れてない?』
俺はインの隣に腰かけると、静かに凪ぐ心のまま、インに話しかけた。
インの姿をした、インの抜け殻に。
でも、もうインの残滓が残るのは、アレしかない。
『ねぇ、イン。触っていい?』
返事はない。
でも、いつもインは拒否した事はなかったから、ダメとは言わない筈だ。
『イン、気分はどう?』
まだ、少しだけ暖かい。
本当に、インはもう此処には居ないのだろうか。
『此処、寒くなかった?寒かったよね。風邪引くから、こんな所で寝ないでよ』
インの顔に纏わりついていた藁を、俺はそっと落とす。後は汗で張り付いていたであろう、髪の毛も整える。
『イン、そう言えば。何だったっけ?』
俺はインの体の様々な部分を整えてあげながら、最後に服の隙間からチラと見えた赤い跡に、吸い込まれるように手を伸ばした。
『最後、俺と約束したよね?怒らないでよ。あの時、ちょっと、俺混乱してて、よく覚えていないんだ』
服の前のボタンを上から一つずつ外していく。
インの素肌が、体が露わになる。アバラは、あの日見た時よりもハッキリ浮いていて、インがきっと最後は何も口に出来ていなかったのだと悟った。
『インが、俺に、会いに来てくれるんだっけ?俺が、酒場を開くから、そしたら、インが来てくれる……だったっけ?ごめんって。うろ覚えだけど、合ってる?』
返事はない。そうだよ、とも、違うよ、とも。
インは何も言わない。
俺は開かれた服の中から除く、赤い跡を一つずつ、なぞる。1カ月前の跡が、何故かこうしてハッキリ残っている。
きっと、知らぬ人が見たら病の症状の一つだと思ったかもしれない。
けれど、俺には分かる。
これらは全て、俺が“あの時”に付けた跡だ。インに付けたモノの事を、俺は一つも忘れない。どこに、どんな風に、いくつ付けたか。
俺は賢いから、全部覚えてるよ。イン。
『きっと、熱が高かったんだね。鬱血の跡が、こんなに浮き上がるくらい。熱が高くて、イン。辛かったね』
返事はない。返事はこない。
眠るような表情なのに、眠っている訳ではない。
『イン、口付けしていい?恥ずかしがらなくていいから。いいよね?』
俺は返事のないインの唇に口付けを落とした。
インの唇はカサカサで、もう以前のような、互いの熱をうかすような感覚は全くない。
『イン、イン、イン、イン。返事をして。お願いだ』
一度、二度、三度。
幾度となく口付けをする。インではないソレに。死体に。
感染者の体に、こうも無防備に触れるなど、医学の知識があろうとなかろうと、あり得ない事だと誰もが分かる。
『イン』
むしろ、俺は伝染りたかった。
インの体の中にある、インを奪ったソレらによって、今度は俺の命を奪って欲しかったのだ。
『怒ってるんだ?そうだよね。そりゃあ、インも怒るに決まってる。俺はインに酷い事を言ったし、酷い事をした。……インを一度、置いて行っちゃったしね』
じょじょに残った暖かさすら消えていく。
インであったという残滓すら、俺から奪っていく。
俺は今度は、赤い跡の残る体にも口付けを落とした。インの体に覆いかぶさるように、インだったモノに置いて行かれないようにするために。
『ねぇ、そろそろ。ゆるして。ごめんなさい。ほら、俺、謝ってるよね。こうして、ちゃんとインの所に帰って来たんだ。ゆるして、ゆるして、ねぇ』
返事はない。
返事は、もう、二度とこない。
インは二度と俺に笑いかけてくれない。
愛してると、コレに伝えても何の意味もない。
『イン、どこに行ったの?』
完全に冷たくなったソレに、俺は問うた。
やっぱり、インからの返事はどこからも聞こえてきはしなかった。
〇
———オブ、これはお前に返そう。インの宝物だ。もし、お前に会えたら渡してくれと、インに頼まれていた。
そう言って、スルーさんから渡されたのは、俺がインにあげた懐中時計だった。インは家を出る時に、自分の死を前にした時、そんな事を言っていたのか。
俺は自身の手元に返ってきた懐中時計を見つめ、もう、どんな気持ちになったらいいのかすら分からなかった。
『イン、ねぇ。俺も連れていって』
インが死んだ。
死んでしまった。
インとの秘密の場所に、俺はたった一人で座っている。
この場所は、いつもインを一番近くに感じる事が出来た場所だった。だから、此処に来れば、インを近くに感じられるかもと思ってやって来たのだ。
『イン、傍に居てくれ』
———自分から離れた癖に。よく言うよ。
自嘲する自身の心の声が聞こえる。
あぁ、そうだった。最初に、俺がインを置いて行ったんだった。
あの時、インをモノのように扱っていたスルーさんの気持ちが、今は痛い程よく分かった。人形にならねば、心を消さなければ、こんなの耐えられそうもなかった。
頭が、おかしくなりそうだ。
俺は必死に心を消しながら、顔を上げた。暗かった筈の大木の穴の中に、光を感じたのだ。
『イン』
地面に手をつく。サラサラとした土の感触が掌に触れる。
暗い夜の中にありながら、上部に空いた穴から月の光が漏れ入る。
先程感じた光は、あぁ、月光だったか。
『…………』
インは俺を月のようだと言った。
静かで、美しくて、優しい明るさが、まるで俺のようだと。
『インは、俺を美化し過ぎだよ』
まるでインが居るように語り掛ける。
返事はない。ないけれど――。
『っ!』
月の光が、暗かった穴の中を照らした瞬間、ソレを照らし出した。
『インっ!!』
大木の側壁に、傷が付けられていた。石で付けたような、その傷跡は、確かに意味のある言葉をハッキリと残していた。
おぶ、あいたい
それは、まるで父からあの人へ送られたメッセージそのものだった。
会いたい。会いたいよ、オブ。
『イン、イン、イン、イン、イン!!!』
俺はその傷に体を寄せると、食い入るように見つめた。あの時のスルーさんのように、俺の自我を保つ為に“人形”と化していた心が、一気に“ひと”へと戻っていく。
引きずり戻される。
それは、俺にとって、とてつもなく残酷な仕打ちだった。
———オブ!次はオブって書く!教えて!
出会ったばかりの頃、俺が教えたのだ。インは自分の名前よりも先に、俺の名前を覚えたがって。インは物覚えが良くなくて、人よりも覚えるのに時間がかかった。
何回書いても、字は歪んで、綺麗には書けない。
その、インのちっとも綺麗じゃない、歪んだ文字が、この側壁に刻んであった。
これは確かに、インの書いた文字だ。
『あ、あ、あ、あ、ああああ』
インによって、月の光によって、俺は“ひと”へと戻された。
その瞬間。心が、砕けた。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!』
インインインインインイン!!!
インも、一人で此処に来てたの?
俺の居ない日々の中。
約束すらまともにしてあげられなかった俺に、会いたいと願って。
今の俺みたいに、少しでも俺を感じたくて、一人ぼっちで此処に来て、泣いていたの?
会いたいと、ずっと待ってくれていたの?
どんな気持ちで、これを書いたの?
壊れる、壊れる、壊れる。
これは罰だ。心を守る事など、許さない。目を背けてなどさせてやらない。インがそう言っているんだ。月の光がそう、俺を追い詰めるんだ。
会いたい会いたいあいたいあいたいあいたい!!
『インっ!会いたい!会いたいよぉっ!!』
もう記憶の中でしか会えない。