231:あいたい

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『イン、お待たせ』

 

 

 俺は、その古い小さな納屋の戸を開くと、そこに横たわる一人の人間の元へと歩を進めた。

 ソレは確かに、スルーさんの言う通り、もうインではなかった。

 

 インだったモノは納屋の隅、藁の詰みあがった場所に、一人で横たわっていた。

 

『ねぇ、1カ月も会わなかったのなんて初めてだよね?俺の顔、忘れてない?』

 

 俺はインの隣に腰かけると、静かに凪ぐ心のまま、インに話しかけた。

 

 インの姿をした、インの抜け殻に。

 でも、もうインの残滓が残るのは、アレしかない。

 

『ねぇ、イン。触っていい?』

 

 返事はない。

 でも、いつもインは拒否した事はなかったから、ダメとは言わない筈だ。

 

『イン、気分はどう?』

 

 まだ、少しだけ暖かい。

 本当に、インはもう此処には居ないのだろうか。

 

『此処、寒くなかった?寒かったよね。風邪引くから、こんな所で寝ないでよ』

 

 インの顔に纏わりついていた藁を、俺はそっと落とす。後は汗で張り付いていたであろう、髪の毛も整える。

 

『イン、そう言えば。何だったっけ?』

 

 俺はインの体の様々な部分を整えてあげながら、最後に服の隙間からチラと見えた赤い跡に、吸い込まれるように手を伸ばした。

 

『最後、俺と約束したよね?怒らないでよ。あの時、ちょっと、俺混乱してて、よく覚えていないんだ』

 

 服の前のボタンを上から一つずつ外していく。

 インの素肌が、体が露わになる。アバラは、あの日見た時よりもハッキリ浮いていて、インがきっと最後は何も口に出来ていなかったのだと悟った。

 

『インが、俺に、会いに来てくれるんだっけ?俺が、酒場を開くから、そしたら、インが来てくれる……だったっけ?ごめんって。うろ覚えだけど、合ってる?』

 

 返事はない。そうだよ、とも、違うよ、とも。

 インは何も言わない。

 

 俺は開かれた服の中から除く、赤い跡を一つずつ、なぞる。1カ月前の跡が、何故かこうしてハッキリ残っている。

 きっと、知らぬ人が見たら病の症状の一つだと思ったかもしれない。

 

 けれど、俺には分かる。

 これらは全て、俺が“あの時”に付けた跡だ。インに付けたモノの事を、俺は一つも忘れない。どこに、どんな風に、いくつ付けたか。

 

 俺は賢いから、全部覚えてるよ。イン。

 

『きっと、熱が高かったんだね。鬱血の跡が、こんなに浮き上がるくらい。熱が高くて、イン。辛かったね』

 

 返事はない。返事はこない。

 眠るような表情なのに、眠っている訳ではない。

 

『イン、口付けしていい?恥ずかしがらなくていいから。いいよね?』

 

 俺は返事のないインの唇に口付けを落とした。

 インの唇はカサカサで、もう以前のような、互いの熱をうかすような感覚は全くない。

 

『イン、イン、イン、イン。返事をして。お願いだ』

 

 一度、二度、三度。

 幾度となく口付けをする。インではないソレに。死体に。

 感染者の体に、こうも無防備に触れるなど、医学の知識があろうとなかろうと、あり得ない事だと誰もが分かる。

 

『イン』

 

 むしろ、俺は伝染りたかった。

 インの体の中にある、インを奪ったソレらによって、今度は俺の命を奪って欲しかったのだ。

 

『怒ってるんだ?そうだよね。そりゃあ、インも怒るに決まってる。俺はインに酷い事を言ったし、酷い事をした。……インを一度、置いて行っちゃったしね』

 

 じょじょに残った暖かさすら消えていく。

 インであったという残滓すら、俺から奪っていく。

 

 俺は今度は、赤い跡の残る体にも口付けを落とした。インの体に覆いかぶさるように、インだったモノに置いて行かれないようにするために。

 

『ねぇ、そろそろ。ゆるして。ごめんなさい。ほら、俺、謝ってるよね。こうして、ちゃんとインの所に帰って来たんだ。ゆるして、ゆるして、ねぇ』

 

 返事はない。

 返事は、もう、二度とこない。

 

 インは二度と俺に笑いかけてくれない。

 愛してると、コレに伝えても何の意味もない。

 

『イン、どこに行ったの?』

 

 完全に冷たくなったソレに、俺は問うた。

 

 

 やっぱり、インからの返事はどこからも聞こえてきはしなかった。

 

 

 

        〇

 

 

 

———オブ、これはお前に返そう。インの宝物だ。もし、お前に会えたら渡してくれと、インに頼まれていた。

 

 

 そう言って、スルーさんから渡されたのは、俺がインにあげた懐中時計だった。インは家を出る時に、自分の死を前にした時、そんな事を言っていたのか。

 俺は自身の手元に返ってきた懐中時計を見つめ、もう、どんな気持ちになったらいいのかすら分からなかった。

 

『イン、ねぇ。俺も連れていって』

 

 インが死んだ。

 死んでしまった。

 

 インとの秘密の場所に、俺はたった一人で座っている。

 この場所は、いつもインを一番近くに感じる事が出来た場所だった。だから、此処に来れば、インを近くに感じられるかもと思ってやって来たのだ。

 

『イン、傍に居てくれ』

———自分から離れた癖に。よく言うよ。

 

 自嘲する自身の心の声が聞こえる。

 あぁ、そうだった。最初に、俺がインを置いて行ったんだった。

 

 あの時、インをモノのように扱っていたスルーさんの気持ちが、今は痛い程よく分かった。人形にならねば、心を消さなければ、こんなの耐えられそうもなかった。

 

 頭が、おかしくなりそうだ。

 

 俺は必死に心を消しながら、顔を上げた。暗かった筈の大木の穴の中に、光を感じたのだ。

 

『イン』

 

 地面に手をつく。サラサラとした土の感触が掌に触れる。

 暗い夜の中にありながら、上部に空いた穴から月の光が漏れ入る。

 先程感じた光は、あぁ、月光だったか。

 

『…………』

 

 インは俺を月のようだと言った。

 静かで、美しくて、優しい明るさが、まるで俺のようだと。

 

『インは、俺を美化し過ぎだよ』

 

 まるでインが居るように語り掛ける。

 返事はない。ないけれど――。

 

『っ!』

 

 月の光が、暗かった穴の中を照らした瞬間、ソレを照らし出した。

 

『インっ!!』

 

 大木の側壁に、傷が付けられていた。石で付けたような、その傷跡は、確かに意味のある言葉をハッキリと残していた。

 

 

おぶ、あいたい

 

 

 それは、まるで父からあの人へ送られたメッセージそのものだった。

 

 会いたい。会いたいよ、オブ。

 

『イン、イン、イン、イン、イン!!!』

 

 俺はその傷に体を寄せると、食い入るように見つめた。あの時のスルーさんのように、俺の自我を保つ為に“人形”と化していた心が、一気に“ひと”へと戻っていく。

 

 引きずり戻される。

 それは、俺にとって、とてつもなく残酷な仕打ちだった。

 

 

———オブ!次はオブって書く!教えて!

 

 

 出会ったばかりの頃、俺が教えたのだ。インは自分の名前よりも先に、俺の名前を覚えたがって。インは物覚えが良くなくて、人よりも覚えるのに時間がかかった。

 何回書いても、字は歪んで、綺麗には書けない。

 

 その、インのちっとも綺麗じゃない、歪んだ文字が、この側壁に刻んであった。

 これは確かに、インの書いた文字だ。

 

『あ、あ、あ、あ、ああああ』

 

 インによって、月の光によって、俺は“ひと”へと戻された。

 その瞬間。心が、砕けた。

 

『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!』

 

 インインインインインイン!!!

 

 インも、一人で此処に来てたの?

 俺の居ない日々の中。

 約束すらまともにしてあげられなかった俺に、会いたいと願って。

 今の俺みたいに、少しでも俺を感じたくて、一人ぼっちで此処に来て、泣いていたの?

 会いたいと、ずっと待ってくれていたの?

 

 どんな気持ちで、これを書いたの?

 

 壊れる、壊れる、壊れる。

 

 これは罰だ。心を守る事など、許さない。目を背けてなどさせてやらない。インがそう言っているんだ。月の光がそう、俺を追い詰めるんだ。

 

 会いたい会いたいあいたいあいたいあいたい!!

 

『インっ!会いたい!会いたいよぉっ!!』

 

 

 もう記憶の中でしか会えない。

 

 

 

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