237:憎い世界

 

「ヴァイス。泣いていいよ」

「何言ってるの。他人にばかりそんな事を言って。アウトだって、いっつも我慢してるじゃないか。僕たちは、正反対だけれど、こんな所は良く似ている。もう、泣けないんだよ」

「泣けない……」

「そうさ、アウト。君は優しい。優しくて、寂しがり屋だ。そんな、真っ白なキミだったからだろうね。君は生存本能という、最も強いマナの感情に抗った。抗って、キミは」

 

 ヴァイスが布団の中にある、俺の下腹部へと手を当てた。

 もう嫌だとは思わない。

 ヴァイスの手を、俺は静かに受け入れる。

 

「扉を開けたんだ。それまで……」

 

 幾度となく、この永遠の中で繰り返され、鍵を掛けられ、出られなくなったそれまでの多くのマナの残滓達の居る部屋の扉を。

 

 まずは他の5つの扉から。

 そして、その後はそれ以前。連綿と続いて来た南京錠の掛かった扉までも、アウトは壊して開けていった。

 

 一つ、一つ。開けて、解き放って。その身に宿して。

 “アウト”という自我を濁らせる事なく、交じり合い、溶け合い、けれど、一個人としての人格はそのままに。

 ねぇ、アウト。君は僕に言ったよね?

 

 “俺の中には、“俺”以外、俺は居ないのに“

 

 それが、全ての答えだよ。確かにアウトの中には、アウトは“アウト”だけだ。けれど、アウト以外の、沢山の人間が、キミの中には……。

 

 

「居るんだ!それは1国、いや1つの世界を作り上げる程の、それまで君のマナが繰り返してその中に宿して来た想いの全て!あぁっ!こんな人間は初めてだ!こんな……僕と、正反対の、人間は……」

 

 俺の下腹部に触れる、ヴァイスの手に力が入る。服の上から、爪が立てられるような感覚。

 

 ヴァイスの言葉で、全てを理解した。

 俺の中にある、俺ではないような、誰かの強い想いのような感情たち。それは、俺のマナが引き連れてきた、それまでの多くの人々の感情だったのか。

 

「そうか……。そうだったんだ」

 

 俺は、俺の中で、一人ではなかった。

 ずっと、“みんな”が居た。

 

 ふと、俺の脳裏に過る記憶。

 膝を抱え、夜を怖がり、暗くなる度に、失禁し、泣きわめいていた10歳のあの日々。

 

 俺はいつからか、夜を恐れなくなった。

 それはいつからだった?

 俺はいつ、あの“作り話”の前世を考えた?

 

 

———こんにちは。どうして君はそんなに泣いているの?

———おにいちゃん、だれ。

———俺?えっと、俺は…俺は、そう!ファー!ファーだ!キミは?なんて名前?

———わからない。ぼく、わからない。おかあさんが、ちがうっていったから。もうわからない。

 

 

 自分の名前さえあやふやだったあの頃。もう、何もかもが怖くて、消えてしまいたいと願い続けた日々。

 あの、自分の事をファーと名乗る“おにいちゃん”は現れた。

 

 

——–何をそんなに泣いているの?

———くらいのがいや。こわい。こわい。

———そうか、暗いのが怖いんだ。じゃあ、俺がお話をしてあげよう。夜を怖がっていたキミのような男の子が、大好きな友達と、夜の冒険をするお話だよ!

 

 

 今の今まで忘れていた。

 他の人には見えない、俺だけの友達。あの時。10歳の頃の俺には、沢山、沢山の友達が居た。

 

 変わる替わる、俺の所にやって来ては、俺の相手をしてくれた。

 色々なお話をしてくれた。

 

 俺には、“みんな”が居た。

 

「じゃあ、ヴァイスは?」

 

 俺の問いに、ヴァイスはそれまで俺の下腹部に触れていた手を毛布の外に出した。その時に浮かべていたヴァイスの苦し気な表情を、俺は一生忘れないだろう。

 

「僕は、いつから、この世界に居るんだろうね。もう忘れちゃった」

 

 出された手を見てみると、そこには、そりゃあもうボロボロで、使い古された、傷だらけの“鍵”が握られていた。

 

「第1輪に戻って来る度に、僕は僕である事を思い出す。何度も何度も、僕は多くの輪を踏み台にしてさ。一度目の“ヴァイス”は、そんなに大きな後悔をその身に宿していたのかな。だから僕は、目覚めると、いつも”僕”なんだ。思い出したくもないのに、いつも僕は、この世界で自分が“ヴァイス”である事を思い出してしまう。もう、ウンザリだ」

「……っ!」

 

 ヴァイスは言った。

 俺とヴァイスは正反対だ、と。

 

「後悔の根っこは、最早。覚えていないのに、鍵はいつも僕に与えられる。永遠の地獄さ。アウトが心に多くの人々を生かす世界を作り出したのなら、僕はその逆」

 

 確かに、その通りかもしれない。

 鍵を持たず、他のマナの残滓を解放し、その身に1世界分の人々の残滓を受け入れてしまった俺。

 

 そして、

 

「僕は1世界分の人々を扉の中に閉じ込め、殺し、世界に一人で立っている。もう僕は、そろそろ閉じ込められる側になりたいよ……。全て忘れて眠りにつきたい。この鍵を形成する後悔すら忘れてしまっているのに」

 

 何度も、何度も、この世界輪で鍵を手に、記憶を継承し続けるヴァイス。

 確かに、どちらも数奇。

 数奇過ぎる運命の中で、異端者として生きている。

 

「僕達、正反対なのに。けれど、似たようなもんだね」

「……あぁ」

 

ヴァイスの苦笑に、俺も笑うしかなかった。

 

「結果として、僕も、」

「俺も、」

 

———-この世界が憎くて仕方がない。