「っは」
ヴァイスにとっては、俺の精神がアウトのマナに弾かれて消えて無くなろうが、そんな事はきっとどうでも良いのだ。
いや、それを言うなら、コイツが口癖のように口にする“お気に入り”に該当するアウトすら、ヴァイスの“退屈”をしのぐ好奇心の前には、どうでも良い事に違いない。
ヴァイスにとっては地獄のように続く生の果てで、唯一、心を癒してくれるのが“好奇心を満たす事”なのだろう。もし、俺もコイツのように“鍵”を継承するようになってしまったら、こうなってしまうのだろうか。
「そんなの、ごめんだ」
そうだ。俺にこれから永遠の地獄が待っているのだとしても、それならその永遠の中でずっと“後悔”を続けたい。その後悔の中に、アウトが居るのならば、俺は永遠にその後悔に潜って、記憶の中のアウトに出会い続ける。
「……出来れば、俺の冥途はアウトであって欲しい」
「は?お前のメイドがアウト?お願いだから、今はキミの気持ち悪さと変態性は抑えてくれたまえよ。時と場と空気を読むって、そんなに難しいかな?」
「お前はもう黙れ」
俺はヴァイスの頭を軽く叩くと、不本意極まりないが、二人で並んで眠るアウトを見下ろした。
「さぁ、僕はもう行くけど。お前はどうする?」
弾かれるかもしれない、受け入れて貰えないかもしれない。
ただ、俺は拒絶されたとしても文句など言える立場ではないのだ。けれど、今の“俺”には出来る事がある。あの時の“オブ”と違って。
足掻く方法があるだけ、この世界は俺にとっては、とてつもなく優しい。
「行くに決まっているだろう」
俺は考える前に、そう、深く頷いていた。頷いて、開かれたアウトの寝衣のボタンをひとつずつ閉じていく。
「悪かったな、アウト。寒かっただろう」
返事はない。けれど、それでいい。今は、もう生きていてくれるだけでいいのだ。
目を覚ますまで寝衣の前が開いていたら、風邪を引いてしまうかもしれない。
そう、丁寧に、一つ一つボタンを閉じて行く動作の中で、俺は静かに想いを馳せた。俺の中に居る、こっちだか、あっちだかのマナの記憶に。
「アウト。君は世界からは手を離したのに、コイツからは、まだ手を離してなかったんだね。それが吉と出るか凶と出るか。僕は見届けさせてもらうよ」
それはアウトに向けたというより、俺に向けられた言葉のようだった。吉を出せるか凶を出せるか。それは全て俺にかかっているのだとでも言うように。
「さて、そろそろ行こうか。ウィズ」
「ああ」
ヴァイスがアウトの下腹部に触れようとする。その腕を、俺はガシリと掴んだ。掴んで、そして力いっぱい締め上げてやった。
「俺が先に行く。お前は俺経由で来い」
「……気持ち悪いなあ。ほんと」
そう、本気で眉を顰めて俺の方を見上げてくるヴァイスに、俺はまたしても胸の中に心地よい風でも吹き込んだような気がした。コイツには永遠に不愉快であって欲しい。
俺はアウトの下腹部に掌を置くと、静かに目を閉じた。
———-会いたい人に、会えるといいね。
そう、俺の耳の奥で、懐かしい声が囁いてくれた気がした。
〇
『ん?』
『どうしたの?マスター?』
俺は自身の背筋に走った妙な感覚に、思わず声を上げた。声を上げたが、それが一体どういう感覚なのか、自分でも分からない。
分からないが、何か背筋の凍るような感覚がピリピリと背中に走り続けている事だけは分かる。
『なんか、背筋がゾクゾクする』
『それ!風邪を引いてるんだよ!』
『風邪……?』
『そう!風邪!俺は昔風邪を引いた時、酷い目にあったんだよ!』
『昔……』
俺は自然とファーの口から飛び出して来た“昔”という言葉に、妙に心を動かされていた。そして、またしても頭の中に“声”が響く。
———-インを探せ!
『マスター!最近ずっと“イン”探しで忙しかったし、今日はお店はお休みした方がいいよ。昨日はたくさん“名前”を教えて貰えたじゃん。あのお爺さんも、若い兵士さんも、昔は猫だったって人も、あの偉そうな演説の上手い男の子も。皆思い出してくれたし、今日1日くらいお店をお休みしても、大丈夫だよ』
そう、店のテーブルを拭いていたファーが手を止め俺の元へと駆け寄ってくる。駆け寄って、俺の額に手を当ててきた。
———インを早く探せ!さもないと、アイツが来る!
『うーん、熱はないみたいだね』
アイツ?アイツとは誰だろう。
それまで、頭の中で定期的に響いていた“インを探せ”という言葉に、アイツという新しい人物が加わった。けれど、それが一体誰の事だか分からない。
———アイツは、またお前を傷付ける!早くインと交代しろ!
また、俺を傷付ける。“イン”と交代。
その言葉に、俺の背筋に走っていた寒気が、更に強くなる。そうだ、早くインを見つけて俺と交代しないといけなかった。
“マスター”を交代しないと。
『うん、そうしよう。今日は、店はお休みだ』
そう、俺が口にした途端。それまで明るい光で満たされていた店内が、薄い灯りのみとなった。どういう仕組みかは分からないが、入口には「ほんじつはおやすみです」という札がかかったのを感じる。
あぁ、この世界は俺の思いのままだ。
何故なら、今は俺がこの世界の“マスター”だから。
『それがいいよ。マスター。熱はないみたいだけど、顔色があんまりよくない』
『なぁ、ファー』
『ん?どうしたの?』
こてりと首を傾げて俺を見上げてくる少年に、俺はハッキリと自身の心が次に出す言葉を拒絶しているのを感じた。感じたけれど、俺は我慢する。気持ち悪いのを我慢して、ちゃんと口に出す。
『さっき、風邪を引いて大変だったって言ってたけど、その時のこと。聞かせて?』
『え?なに?今日は俺の昔話を聞きたいの?マスターは休みって言葉の意味を分かってなさすぎるよ!』
『お願いだよ、ファー。教えてくれ。キミの事が、知りたいんだ』
『……俺の事が、知りたい?』
『うん』
何故だろう。俺が“キミの事が知りたい”と言った言葉が、ファーにとっては非常に引っかかったようで、何度かその言葉を呟く。呟いて、呟いて。
次に、俺の顔を見上げてきた時には、心底悲しそうな表情を浮かべていた。
『知りたいって言ったのに、教えてくれなかったんだ』
『!』
『教えて、ほしかったのに』
始まった。この世界の人々の扉は、いつもこうやって唐突に開かれる。
彼は、今、自身の扉に手を掛けた。
『うん、全部。俺が聞くから。聞かせてごらん』
俺は彼の事をもう“ファー”とは呼ばなかった。きっとコレは彼の本当の名前ではないから。俺が、彼を“ファー”に閉じ込めてしまっていた。
俺が、俺を守る為に。
俺と少年は並んで店の椅子に座ると、ポツリポツリと語られる少年の雨粒のような言葉に耳を傾けた。
それは少年の長い、長い、けれどたった15年の人生譚だった。