『ねぇ、ゆうまぐれさん?』
『……なんだ』
今日も今日とて俺とニアと夕まぐれは、夕暮れ時にダンスの特訓をしていた。確かに夕まぐれは、ニアの足を踏む事は減った。そう!
36回が今や0回だ。
これは快挙だ!それもこれも先生である俺のお陰である!
『と、言いたいところなんだがなぁ』
ただ、逆にダンスの完成度は酷く落ちた。そのことが、ニアにも分かるのだろう。なにせ、互いに足を踏まなくはなったが、全くと言って良い程、俺の歌の流れに乗っていない。ただ、一緒に“動いている”だけ。
あんなのは、まるでダンスとは呼べない。
『あなたね!』
俺は夕日に照らされながら、頬をパンパンに膨らませたニアの顔に、まるで秋に成る熟れに熟れた実のようだな、と思った。
ニアの癇癪玉は、今にもパン!と破裂せん勢いである。
『私のことを、あなどっていない?』
『……そんな事は』
『そんなことあるわ!あなた!私の事を女神様だって思い過ぎなのよ!』
『…………』
さすがニアである。ここへ来ても、あの自惚れ屋は一切品切れになる事を知らない。いつも大売り出しである。
『わたし、今、あなたと踊っていても、ちっともどう動けばいいのか分からないわ!こんなのダンスじゃない!』
『…………』
そして言われっぱなしの夕まぐれはと言えば、ニアのカンカンに怒る様を、なんとも言えない表情で見つめていた。あぁ、この顔は、きっと似たような癇癪玉を爆発させた事のある顔だな。
『もういい!もういいわ!』
『おい、ニア』
あぁ、ここへ来てニアがまた匙を投げそうだ。俺はこりゃあいかんと、地団駄を踏みつつ腕を上下に動かすニアを落ち着かせようと手を伸ばした。
が、次にニアが口にしたのは、俺にとっては甚だ予想外な言葉だった。
『もう!私の事は女神様って思わなくていいわ!だから、足だって踏んで良い!もっと楽しいダンスをしましょう!』
『それは……』
『夕まぐれさん!あなたね!私は知っているのよ!私のお父さんと踊っている時はもっともっと上手だったわ!足を踏んでても上手だったじゃない!なんで私と踊ると足元ばかり気にして、私を見てくれないの!?特別に許してあげるから!もう足を踏んでも怒らないから!』
———-私を小さい女の子だって、あなどるのを止めて!許せない!
『ニア』
俺はニアの言葉に思わず感動してしまった。
ニアは自惚れてなどいなかった。自惚れの品物はいつの間にか完売していた。俺が見逃していただけで。
全く上手く踊れない毎日を経て、ニアはちゃんと“現実”を見ていた。
『分かってるじゃないか、ニア』
夕まぐれはニアを“女神様”だと思って、足を踏まなくなったのではない。
夕まぐれは、ニアが幼い子供だから、自分の娘と同じような“女の子”だから、踊れなくなってしまったのだ。
そして、ニアはそれが許せない。ニアは他者から侮られる事を、よしとするような玉ではないのだ。
『まずはダンスをしましょう!いいわよ!わかってる!私だって沢山いろんな人の足を踏んで来たんだから!ゆるしてあげる!36回以上踏んでもいい!私はダンスの練習をしているの!ダンスが上手になりたいの!』
『……ああ。そうだな』
最初は俺が何度下手だと言っても聞きはしなかった癖に。夕まぐれとのダンスが、ニアに自覚をもたらした。そして、一方的に合わせられるような踊りというのが、いかに踊りにくいかを知ったのだろう。
『お父さん!もう一曲よ!もう、元気いっぱいなのを歌ってちょうだい!』
ニアはキッとした目つきで俺を見てくると、夕まぐれの肩に手を置いた。あの顔は必死に考えている。どうすれば“ダンス”を踊れるのか。必死に、必死に考えている。
『あぁ!まかせろ素晴らしい我が娘、ニア!お前のその素晴らしさにピッタリな歌を、これから歌おうじゃないか!』
上手な人間、甘えられる人間から“合わせて”貰うのが当たり前だった、今までのニアでは、にこんな風に考えさせる事は出来なかった。それを、させたのが、このニアの必死に食いしばる顔に眉を顰める男、夕まぐれ。
あとはコイツだけだ。
『おい!夕まぐれ!ダンスは同じ場所に立って踊れ!上を見上げても、下を見下ろしてても、上手くは踊れない!まず同じ高さに、ニアを立たせろ!そうすればうまくいく!』
『はぁ?』
意味が分からないといった顔で、夕まぐれが俺の方を見てくる。けれど、そんな夕まぐれなど俺はお構いなしで、歌い始めた。
なにせニアはとっくの昔に準備万端なのだから!
『ちょっ、まっ』
『いくわよ、ゆうまぐれさん!』
———さぁ!舞台の幕は上がった、狂騒と熱狂のなか、朝まで踊り明かそう!
————
———
—–
『いたいわ』
自身の足をさすりながら、蹲るニアに夕まぐれはハッキリと気まずそうな表情を浮かべた。
『だから、言っただろう』
『けど、いいわ。今までのダンスよりは、とても良かったもの。それに、私もたくさん踏んだし』
『まぁ、そうだな』
いたいわ。そう蹲るニアも、この夕まぐれの足を散々踏んでいるのだ。ただ、体重差のせいで、夕まぐれの方が平気そうな顔をしているだけ。
ニアだって夕まぐれの足を、58回は優に踏んでいる。踏み切っている。
『でも、もう少ししたら、私。ちょっと分かりそうなの』
『そうか』
『ねぇ。夕まぐれさん。あなたはいつ、おうちに帰るのかしら』
ニアの真っ直ぐな瞳が、夕まぐれを見据える。このダンス練習の終わりを。自分に必要なモノを与えてくれるこの男と踊れるのが、あと何度あるのか。
きちんと頭に叩き込もうとしている。
『3日後だ』
『そう、もうすぐね』
このニアの『もうすぐね』の言葉に、一体どんな気持ちが含まれているのか。時間にして1週間。ほんの少し、このダンスを共に踊った男に、このニアがどのような感情を抱いているかなんて、俺には予想もつかない。
女の子の摩訶不思議な気持ちは、男の俺には一度だって正しく理解できた事はないのだ。
『痛かったけれど、さっきのダンスはとても楽しかったわ。私、やっぱり思ったの。私はダンスが下手じゃない。そして、あなたもダンスは下手じゃない。ただ、合わせるのが下手なだけ。ねぇ、お父さん。そうじゃない?』
答え合わせでもするように、ニアの芯の通った声が俺の耳をつく。
あぁ、まったく。子供の成長って、女の子の成長って。こんな急に春に花が一斉に開くみたいに、花開くものなのか。
もう、口だけ達者な女の子、なんて口が滑っても言えやしない。
ちょっと、寂しいじゃないか。
『あぁ、そうだな。その通りだ。ニア。お前ら二人共と踊った事のある俺が断言しよう。お前らは、体を動かす事は、とても上手い。ただ、自分の中にある“音楽”だけを聴いて踊っているから、ダンスになると下手になる。ダンスは二人の中の音楽を同じにして、二人で作り上げるものだからだ』
だからこそ、自分の音楽しか聴かないこの二人は、相手の足を踏む。そして、逆に少し前までの夕まぐれは、相手の音楽にも自分の音楽にも耳を傾けていなかった。
ただ、足を踏まないように動く事。自分よりも遥かに弱く、下の人間を傷付けてはならないという。そういう見下し。
そんな事だけを考えて踊ったのでは、上手く踊れよう筈もない。
『夕まぐれ、ダンスの相手はいつもお前と対等だ。それを、忘れるなよ。たとえそれが、自分の“本当の娘”だとしてもな!』
『っ!』
俺はニアと共に並び立つ夕まぐれの、夕日に照らされた顔を見ながら、その肩をポンポンと叩く。昼間、夕まぐれの子の肩を叩いてやったように。