『おや?貴方は初めて見る顔だね』
「ん?」
そう、俺が吸い込まれるように一歩、また一歩と酒場への道のりを歩いていると、急に隣から声を掛けられたていた。
まさか、この世界の住人に声を掛けられるとは。俺は思わず目を瞬かせて、声のする方に顔を向ける。するとそこには、穏やかな白髪を混じらせた老人が立っていた。
『こんにちは』
「あ、はい。こんにちは」
こんにちは。
そう、彼の浮かべる笑顔は酷く穏やかだった。そして、その顔はまるで、店でバイやアバブの話を聞いてる時のアウトの表情にソックリだった。
『急に話しかけてしまってすまないね。年寄りはこれだからいけない。誰彼構わず話しかけてしまう』
「いえ」
歩きながら、俺は小さく首を振る。彼もこの世界の住人。という事は、アウトを形作る一つだ。
「どうして、皆、あの場所に……酒場に向かうんですか」
『あぁ、それは皆、あの場所が好きだからね』
好き。あぁ、そうか。それもそうだ。好きだから向かう。当たり前の事。老人の言葉に、俺はそれもそうか、と苦笑してしまった。
『ここの皆は酒が飲める人も、飲めない人も、皆あの場所が好きなんです。色々な人と話せるし、それにあの店のマスターは誰の話も笑顔で聞いてくれる』
「マスター?」
『そう、まだ若い青年で最初は一人で店をやっていた。そのうち、もう一人男の子の従業員が増えて、今では二人で店を切り盛りしているよ。とても良い子達だ』
———-まるで、孫でも見ているような気分になる。
そう、近づいてくる店を見ながら老人が優しい口調で話をするのを、俺は半ば確信を得ながら頷いた。その、マスターというのがアウトだ。
アウトは酒場を持つのが夢だと言っていた。その夢を、こうして心の中でひっそりと叶えていたのかと思うと、俺は今すぐにでもアウトを見つけ出して、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
アウトに、早く会いたい。
「……アウト」
『そのアウト、というのは、もしかしてマスターの名前なのかい?』
「そうです」
きょとんとした顔で尋ねてくる老人に、俺はハッキリと頷く。この酒場のマスターでもあり、この世界の軸でもあるマスター。それは、もうアウト以外にない。
『素敵な名前だ。貴方に話しかけたお陰で、本当に良い事を聞けた。ありがとう』
「いえ、こちらこそ。貴方と話せて良かった」
どうやら、酒場の前で何かあったらしい。大勢の人が立ち止まり前へと進めなく中、それに伴い、俺もその場から動けなくなってしまった。
きっと、一番先頭に居るであろうヴァイスが、何かやらかしたに違いない。俺は思わず眉を顰めたい衝動を抑え、話していた老人に別れを告げる事にした。
「俺は急ぐので、お先に失礼します。この世界の住人に、貴方のような人が居てくれて良かった」
『いいえ。こちらこそ。出来れば、さっきのお名前はマスター本人にも教えてあげてくださいね。名前はとても大事だから』
「はい」
名前の重要性。
それはアウトが最も強く想っていた事の一つだ。それなのに、アウトをアウト足らしめている世界の成り立ちを、俺が揺るがせてしまった。そのせいで、アウトは自分を諦め、眠りに落ちた。
だとしたら、俺がアウトの手を取り、引き戻さなければならない。お前の名前は“アウト”なんだと、今度こそ言い聞かせてやらねば。
「アウト。お前は、アウトだ」
———そして、俺は。
それすら躊躇うようなら、もう俺は“俺”なんていらない。永遠に6輪目にでも、どこへでも行けばいい。俺は俺に見切りを付けずに済むように、今度こそ俺は、自分の手綱は自分で握るつもりだ。
『最後に貴方の名前を聞いていいかい?』
「俺の名前ですか?」
『ええ、名前はとっても大事だ。失くさないようにしないといけないから』
おあつらえ向きのタイミングで、老人が俺に向かって問うてくる。ありがたい。ちょうど口に出して言っておきたいと思っていたところだった。
「ウィズです」
『そう、ウィズさん。良い名前ですね』
そう、俺は“ウィズ”だ。もう“オブ”じゃない。オブは今、家出中だ。そして、もうきっと俺の所には帰ってこないだろう。アイツも俺の中は、酷く居心地が悪そうだった。
「そうだ。最後に貴方の名前も伺っていいですか」
『そうだね。人に名前を尋ねておいて、自分は名乗らないなんて無礼な事をするところだった。私の名前は』
———-上木 茂。
俺は老人の口から放たれた、聞き慣れぬ名の響きに、何故だか意味のある文字の形をすんんなり思い浮かべる事が出来たのだった。
————
———
—–
「おい、これは一体何の騒ぎだ」
先程の老人と別れ、俺は人込みを掻き分け、やっとの事で店の前まで辿り着いた。その先頭には、やはりというか何というか、見慣れた後ろ姿。
そして、興味深そうに店の入り口にある“何か”を眺めている。
「あぁ、ウィズ。やっと来たね」
「これは、どういう事だ。何故店に入らない」
「だって」
俺の問いに、ヴァイスはひょいと自身の目の前にあったモノを指さした。俺は群がる人々の隙間から目を細め、ヴァイスの指先を見てみる。すると、そこには“ほんじつはおやすみです”と、見慣れた文字で書かれた札が掛かっている。
「休み?だと」
「そうみたい。しかも、多分コレ、アウトの文字だよね?」
「ああ、確かに。アウトの文字だ」
そう、俺が分からない筈がない。この札に書かれた文字は、明らかにアウトの文字だ。よく俺が何かを話して聞かせる度に、興味深げな様子で手帳に書いていた文字と、全く同じだ。
アウトだ。アウトが此処に居る。
俺は“ほんじつはおやすみです”と書かれた札などハッキリと無視すると、ヴァイスの体を押しのけ扉に手をかけた。押しのけた拍子に「無遠慮すぎるよ、お前」と口にするヴァイスの声が聞こえた気がしたが、そんなのは無視した。
無遠慮だと?他人のマナに勝手に入り込んでいる時点で、無遠慮上等だ。
あぁ、此処にアウトが居るのだ。早く会いたい。会わなければ。
そう、俺が扉を引いて開けようとした時だった。