あぁ、まったく!まったく!
一晩眠れば、俺はどんな事だって上手にケロリと出来る筈なのに、目覚めた瞬間も、未だに俺のかなりやは真っ黒だった。
いや!むしろ夢の中にもヨルは出てきて、俺がやめてと言っても無視して、俺のカナリヤに黒の液体をドバドバとかけていったのだ。
俺の事を無視するのは、最近のヨルはずっとだった!
うんうん唸りながら難しい顔をして、俺が『ヨル』と呼んでも『あぁ』と、生返事ばっかり!それでも、俺はヨルが大変な難しい悩みを抱えて苦しんでいると思ったから、ずっとずっと我慢していたのに!
———-……辛くはない。むしろ少し楽しい程だ。
なのに、アイツは俺が隣に居るのに“恋”について楽しい事を、一人で考えていたのだ。俺はずっとヨルの事を考えて、話しかけるのも、一緒に踊りたいのも我慢していたのに!
『真っ黒だ!真っ黒!俺のかなりやは、炭より真っ黒だ!』
『おとうさん、うるさいわ』
そう、すげなく口にしてくるのは、俺の隣を歩く娘のニアだ。俺達は今二人で、夕まぐれのお見送りをする為に、約束の広場へと向かっているところである。
『ニア……疲れたんじゃないか?お父さんが抱っこしてやろうか?』
『いやよ。こんな皆の前で。赤ちゃんじゃないのよ?私』
『っ!』
あぁっ!なんてことだ!赤ちゃんじゃなかったのか!うちのニアは!
つい、こないだまでニアは赤ちゃんだったような気がするのだが。我儘で癇癪持ちの、自惚れ屋の、可愛い可愛い俺の赤ちゃんだった筈なのに!
『そんなっ!』
昨日から妙に大人っぽく見えてしまうのは、俺が夕まぐれとのダンスを間近で見ていたせいだろうか。
『ニア!赤ちゃんに戻ってくれ!』
『はあ!?いやよ!私はもう10代の大人なんだから、赤ちゃんになんて戻れないの!』
ニアも大人っぽくなるし!インまでこんな事を言い出したら、俺は一体誰と遊べばいいんだ!
『あぁぁぁぁああ』
『おとうさん、うるさいわ。赤ちゃんみたいに泣かないで』
あぁ、ニアは本当に冷たい。女の子の成長は早すぎて、男の俺には全然ついて行けない。村で一番足の速い俺がだぞ!?
こんな事なら、ダンスの特訓なんてしなきゃ良かった!
ダンスなんてずっと下手クソでいれば、こんな――!
『……それは、違うな』
そこまで考えて、俺はいけないいけないと、拳を作った手で、コツンと自分の頭を叩いた。
ダンスの特訓はニアには必要だった。そうでなければ、ニアは俺の知らない所で、転んで赤ちゃんみたいに泣かなければならなかったのだから。
ダンスの特訓は、俺がニアにしてあげなくちゃならなかったのだ。
『はぁ』
今、俺は物凄く、嫌な奴だ。
ヨルの事もそう。ヨルが楽しかったのなら、俺も一緒に楽しいように、楽しい歌と踊りを踊ってやれば良かったのだ。
なのに、ヨルが楽しいのを、俺はこんなにも怒っている。俺は嫌な奴だ。心の中のかなりやを真っ黒にしたのは、ヨルじゃなくて、俺だ。
でも。でも。でも。
『オブー!』
『イン!』
俺はふと、原っぱの方から聞こえて来た元気な二人の声に、顔を上げずに耳だけ反応した。オブとインだ。あの二人は、二人で遊んで居る時は、お互いしか見えていない。
もうこの世界には、お互いしか居ないって顔で、手を繋ぎ合うのだ。
俺は、あの二人が羨ましい。俺にはそんな人、居ない。
俺は、インが羨ましい。インにはオブが居るから。俺にとってのヨルがそうであって欲しかった。
でも、それは二人がまだ“子供”だからだ。俺はもう“大人”だから、我慢しなければならない。大人になっていくニアの背中を見送るように、ヨルが一人で楽しい気持ちになっているのを、良かったねと隣で喜んであげなければ。
ヨルが一人で楽しいのなら、それでいいじゃないか。俺も一人で歌って踊ればいいのだから。
『お父さん』
その瞬間、俺の手に小さな温もりがそっと触れてきた。
『とくべつに、手を繋いであげるわ。私は赤ちゃんじゃないけどね』
『ニア』
ニアが手を繋いでくれた。でも、これはニアが赤ちゃんだからしてくれたのではない。きっと、この手は。
———-お父さんが、赤ちゃんみたいな顔をしてるから。今日だけトクベツよ。
声なきニアの声が聞こえた気がした。
そうか、確かに昨日、ニアは夕まぐれに言っていた。
———女の子はね、やさしいから男の人が“本当に”気にしている事は口にしないのよ。
ニアは本当に、もう赤ちゃんではないのだ。それどころか、本当の本当に大人になろうとしている。背も伸びた、言う事も大人びた。抱っことせがまなくなった。
女の子は、お父さんが格好良くない事を知って、少し大人に成る。そうなのだとしたら、ニアをここまで“大人”にしたのは、俺じゃないか!
『ニア、ありがとう』
『どういたしまして』
俺はニアに手を引かれながら、広場までの道のりを歩いた。今日は夕まぐれと『サヨナラ』をする日なのに、まるで俺は子供のニアとも『サヨナラ』する日のような気がして、寂しくなった。
そんな事を考えていたら、俺とニアは村の広場に到着していた。そこには、まだ夕まぐれはおらず、居るのは村の集会場に集まる若い男衆。もうそろそろ行われる、山肌の補正工事について、話しているのだろう。
そこには、何時ものようにヨルの姿もある。
ヨルは夕まぐれの見送りはしないのだろうか。
『お父さんも、仲間に入れて貰えばいいのよ。素直にね』
下の方から、ニアのスンとした声がする。俺がヨルを見ているのを、どうやら仲間に入りたいのだと勘違いしたらしい。
俺は別に寂しがってなどいない!
『お父さんには、ヴィアも、インも、ニアも居る!』
『あのね、家族以外のたいせつな人だって、ひつようよ?だって、私やお兄ちゃんだって、いつまでもあの家に居るわけじゃないんだから!お母さんだって、ずっとお父さんとは遊んであげられないのよ?』
『ぐ』
なんでこうも女の子は寂しい事ばかり言うんだ!
俺だってヨルがそうなってくれたら良いなって思ったのに、ヨルは“違った”から仕方がないじゃないか!
『よう、見送りご苦労』
『っ!ににに、ニア!』
そう、俺がニアの手をギュウッと握り締めながら口を窄めていると、後ろから聞き慣れた男の声と、獣の子供の鳴き声ような音が俺の耳に響いてきた。
振り返ると、そこにはいつものように俺達のような出で立ちとは一線を画した、素敵な格好で立つ夕まぐれと、その子のビロウの姿。
あぁ、もうビロウに関してはニアの存在に耳も顔も真っ赤ではないか!
恋だ!ビロウはニアに恋している!あれ?恋?恋ってどこかで出てこなかったか?