『ニアのダンスは、俺の次に素晴らしいな!』
『……お父さんのそういうところ、少し好きで、少し嫌いだわ』
『なんだ?ニア』
いや、さすがにいくら何でも俺より上手くはない!これも本当!
俺は耳元で、ぶすくれた声を上げるニアを抱きかかえたまま、俺達の方を笑って見ている夕まぐれの方へと歩み寄った。
『夕まぐれ、お前も上手になったな!お前はあまり良い奴ではないが、サヨナラだから、お前にも春をやろう!』
『春、ね』
俺はポケットの中に一輪だけ用意していた黄色の花を取り出すと、夕まぐれの方へと突き出した。黄色の花は、一番たくさんヨルにあげたが、一本分くらいなら、コイツにもあげていいかなと思ったのだ。
『こんな春は、初めてもらったよ』
俺から春を受け取った夕まぐれは、なんとも言えない顔で黄色の花を見つめていた。その隣では、ともかく終始ぽかんとしていたビロウの姿がある。俺は、急いでもう片方のポケットから、白い花を一輪取り出すと、ニアに渡した。
『ニア、これをビロウに』
『……なんで?』
『なんでも!』
何が何だか分からなかっただろう。
あぁ、なんて可哀想なニアに恋する哀れなビロウ!最後くらい、ちょっとでも良い想いをさせてやらねば、この男の子の恋心があんまり可哀想だ!
俺は名残惜しい気持ちを抑えながら、抱っこしていたニアを地面へと下ろした。すると、地面に足をついたと同時に、ニアはクルリとビロウへと体を向ける。
『ぅあっ!に、にあ』
その瞬間、ビロウの心臓の音が、俺にも聞こえたのかと思う程、ビロウの体が震えた。
そんなビロウに、ニアはスンとした表情のまま、一輪の白い花を差し出しながら、小さく一言だけ呟いた。
『ごめんね』
『え!?まだ告白もしてないのに!?うそ!』
そうだぞ!ニア!まだ告白もされていないのに、事前に男を振るとは、一体どんな悪い女なんだ!さすがに、告白くらいはさせてやれよ!
そう、俺が思っているとニアが眉を顰め、訳が分からないといった表情を浮かべた。
『何を言っているの?……足をふんで、ごめんねって言ったのよ。私は』
『あ』
そうか、ニアは恋する男の気持ちを早々になぎ倒したのではなく、あの日のダンスについて謝っているのだ。
たくさん、足を踏んでごめんね、と。
『……ニア、あの、その』
『なあに』
ビロウがニアから貰った白い花を見つめ、耳を真っ赤にして、次の瞬間、ニアに向かって大いに叫んでいた。
『俺、また来ます!大きくなってまた来ますから!その時は、また俺と踊ってくれませんか!』
『…………』
息子の突然の未来への約束の告白に、夕まぐれが面白い位に目を瞬かせている。どうやら、息子のこんな姿を見るのは初めてのようだ。
もしかして、男の成長というのは遅ればせながら”恋”が運んで来るモノなのかもしれない。
俺は、顔を真っ赤にするビロウを前に、はたとそんな事を思った。
『そう、私とダンスを……』
そんな必死なビロウの姿に、ニアは口元だけの形の良い笑みを浮かべると、どう考えても、もう赤ちゃんではな言わない台詞を言い放った。
『その時の、あなたしだいね』
『っ!』
あぁっ!ニアはもう完全に男を手玉に取る方法を会得してしまった!なんて悪い女の笑みなんだ!
これはもう完全に赤ちゃんのニアとはサヨナラだ!そして、サヨナラがある時、必ずそこには次の”はじめまして”が存在する。
———はじめまして、大人のニア。
俺は足元で繰り広げられる、小さな大人達の悲喜こもごもを、なんとも言えない気分で見つめていた。そのせいで、俺は気付かなかった。
いつの間にか、ヨルと夕まぐれが二人して向かい合っている事に。
『よお、見送りはないと思っていたが、来てくれて嬉しいよ』
『エア、お前は……いつも、俺を』
兄弟二人が、何か俺には分からない話をしている。きっと、ヨルも夕まぐれにサヨナラを言いたくなったのかもしれない。どんなに嫌な奴でも、兄は兄だ。家族なのだ。
『一つ、お前に謝りたい事があった。最後にそれを伝えられそうで、良かった』
『……なんだ』
夕まぐれが俺の渡した黄色い一輪の花を手で遊ばせながら、フッと小さく笑った。その顔は、まるでヨルだ。ヨルを恐れなくなった夕まぐれは、もう、殆ど夜になった。
素敵な顔になったじゃないか。
『…………』
けれど、そんな夕まぐれをヨルは心底不愉快そうに見つめている。似合わない程に拳を握りしめて。
『昔、お前のカナリヤをインクで黒く染めた事があったな』
『……そのせいで、あのカナリヤは死んだ』
そうだったのか。かなりやは死んだのか。
俺はその瞬間、拳を握り締めるヨルの後ろに、またしても、小さなヨルを見た。かなりやの亡骸を手に、おいおいと泣く、小さなヨル。
それはピーちゃんが死んでしまって泣きわめく、俺の姿と重なった。
『悪かった』
『っ!』
『俺は、少し……あのカナリヤが羨ましかったんだ。それを心底大事にするお前に、腹が立ったんだ』
黄色い花は夕まぐれの手の中で風に揺れた。
あぁ、もう本当の春だ。暖かい。気持ちいい。
俺が頬を撫でる風を感じながら、目を閉じ、夕まぐれの謝罪を歌のように聞いていると、その曲は驚くほど容赦なくぶった切られた。
もちろん、ヨルによって。
『絶対、許さん』
『……お前』
『死んでも許さん』
あぁっ!まったくヨル!お前ってやつは!そんなに、そのかなりやが大好きだったんだな!大人になっても忘れられないくらいに!
もしかすると、ヨルの恋の相手は、そのかなりやだったのかもしれない。
そう思うと、俺は漏れ出る笑いを隠す為に、夕まぐれ達に背を向けた。
夕まぐれへのサヨナラは、歌に込めた。
だから、もう良いのだ。