265:怒髪月を衝き、幸福を手にする

 

『そう。そうだ。いっしょに、二人で居れる場所を、探そうって、言った。言ったのに、あいつは、俺を叩いて、ひどい事を言った』

 

 俺は、バカで、おろかで、何も分かってないって。自分の苦しさを分かってないって言って、俺にあっちへ行けっていったんだ。

 

 真名を思い出して、記憶だけだった思い出に、あの時の俺の感情が一気にくっ付いてくるようになった。だから、さっき酒場でマスターに昔の話をした時も、悲しくて辛くて、子供みたいに泣いてしまった。

 もうすぐ大人だから、泣くのはおかしいって分かってるけど、止められなかった。

 

 そう、俺はずっとずっと悲しかったのだ。

 

『うんっ、インがそう、頑張って言ってくれたのにね。……俺はっ、酷いことばかり言った』

 

 そう、そうだよ。ひどい事をたくさん言われたんだ!

 目の前の男の子の言葉と共に、俺はどんどん心の中が嵐の中みたいになっていくのを止められなかった。ひゅうひゅう、ごうごうと、心の中が荒れ狂う。

 俺は!ずっと、悲しかった、苦しかった、腹が立った!

 

『おれの事がいちばんって言ったのに!アイツは、おみあいをして、おれじゃない人といっしょに居る為に帰っちゃったんだ!いかないでっていったのに!みのほどをわきまえろって!きぞくと、のうみんだからって!』

『うん、うん、うんっ』

 

 荒れ狂う、荒れ狂う。

 あぁ、これは疾風だ。疾風が来たんだ。心の中の畑を、全部駄目にするくらいの、大きな疾風が。

 俺は、怒ってる。凄く、凄く、怒ってる!

 “アイツ”に!怒っているんだ!

 

『2回も、おれのこと、叩いた!おれと出会わなきゃ良かったって言った!おれと会わなかったら、苦しいこともなかったのにって言った!いっしょにやろうって約束した酒場の夢も、バカにするみたいに鼻で笑った!でもっ、どんなことを言われても、おれは、がまん、したっ!アイツが苦しそうだからって、がまんしたんだ!』

 

 俺は、俺のすぐ傍で、『うん、うん』と頷く男の子に向かって叫んでいた。さっき、マスターに話をした時よりも、激しく、たくさんの怒りを込めて。

 

『自分ばっかり、つらいって顔をして、おれをバカにした!お前は待ってるだけだから楽だって!おっ、おれだって、ずっと、ずっと、つらかったのに!』

 

 腕を振り上げて、足を鳴らして。子供みたいに、癇癪を起すみたいに。

 でも、いいでしょう?だって俺、大人じゃないから。大人になる前に死んじゃったから。

だから、いいんだ!俺は“子供”でいい!みたいじゃない!子供なんだからっ!

 

『アイツはおれとの約束なんて覚えてないっ!きっと、おれががんばって、しゅとにお店を開いたって、お店には来てくれなかった!会いたいって思ってるのも、おれだけっ!ぜんぶ、おれだけっ!』

『……イン。そんなことない、だって』

『そんなことあるんだ!だって!』

 

 何かを言いかける男の子の言葉を遮るように、俺は叫び続ける。凄い風が、巻き上がり全てを吸い込んで壊していく。

 俺の怒りも、悲しみも、苦しさも。

 全てを飲み込んで、巻き上がって、それはどこかへ行こうとしている。

 

『だって!しゅとに帰る日だってそうだ!サヨナラは嫌だったから、いつも別れる時みたいに、じゃあねって言っても、少しもおれの事なんか見てくれなかった!無視されたっ!おれは、それからずっとひとりだった!さみしかった!だから、俺は思った!あんな奴、きらいになってやろうって!そうすれば、おれだって、楽になれるって!』

『っ』

 

 俺の言葉に、目の前に立っていた男の子の目がユラリと揺れた。

それまで黙って頷いていた彼が、ジッと俺を見つめながら、いやいや、と静かに首を振る。やめて、やめてとでも言うように。

 

『……でも、なれなかった。おれはバカだから、まいにち、まいにち、木にのぼって、会いに来てくれるかもって、きたいして、まってた!でも、きて、くれなかった……。もう、くるしくて、くるしくて。ほんとうは、一緒じゃなきゃ、お店なんて、むりだって。いみないって。わかってた。だから、』

『……イン?』

 

 俺は、先程までの全ての感情が風に攫われて、舞い上がって行くのを見た気がした。

 ごめん、と震える声が聞こえる。あぁ、巻き上がった俺の気持ちは、一体どこへ行ったのだろう。

 

 見上げてみるけれど、そこにあるのは真っ白な天井だけで、なにも、なにもなかった。そう、残ったのは真っ白な気持ち。

 なのに、真っ白になった途端、俺の頬は濡れていた。

 

 あぁ、疾風は去った。残ったのは静かな、静かな広い草原。すごく、静かだ。

 

『だから、病気になったときも、おれ、すごく安心した。もう、これで、なにも考えずにすむって。からだが、苦しいことだけ、考えればよかったから。よかったぁって、おもった』

『……っだから、インは』

 

 そうだった。だから、俺には鍵がなかった。置いていったんだ。お父さんに、もし、アイツが来たら渡してって言って。置いて行った。

 どうせ来ないだろうって分かってたけど、それだけは、最後まであきらめきれなかった。でも、それで良かった。もう“俺”が終わるのは分かっていたから。

 

 結果という未来を思って、苦しむ必要なんてなかった。希望を、置いていくだけ。ただ、それだけで良かった。

 

『鍵を、置いて行っちゃったんだね』

『……鍵』

 

 俺は舞い上がっていった気持ちの行先を見失ったまま、目の前で手に持っていた鍵を見つめる男の子を見た。そうだ、あれも”鍵”だ。

 俺すら持っていなかった、この部屋の鍵だ。それを、どうしてこの子が持っているんだろう。

 

 どうして、この子まで、

 

『ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ』

 

 泣いているのだろう。

 

『受け止めました。あの時、インの言えなかった気持ちを。俺が弱くて聞けなかった気持ちを。あぁっ、やっと、俺のところに来てくれたっ』

 

 苦し気な涙声と共に、男の子がその両手でギュッと、俺の手を握り締めてくる。その拍子に、俺の手には先程まで、男の子の手の中にあった鍵が握らされていた。

 

『あれ?』

『イン、返すよ。もう、絶対に手放さないでね』

 

 あれれ?

 俺の手の中にあるのは、さっきまで見ていた鍵の形をしたものじゃない。小さくて、丸いもの。この感触を、俺は知っている。とても大事で、大切で、いつも持ち歩いてた。どこへ行くにも持って行って、失くさないように。

 

 そう、これだけは俺だけのモノだって。

 これは、これはっ!

 

『オブがくれた』

 

 かいちゅうどけい。

 俺は手の中に握らされたソレに視線を吸い込まれるように、目を奪われていた。

 

『もしかして、オブ?』

 

 俺はやっとの事で思い至った相手の名前を口にすると、その瞬間、俺の体は痛いくらいに抱きしめられていた。

 あぁ、この苦しさも久しぶり。待ってって言っても、オブは全然、俺の言う事なんて聞いてくれなくて、俺は気付いたらいっつもオブの腕の中に居た。

 

『オブだ!』

『イン、イン、いん……もう』

 

 でも、本当はね。待ってって言って、本当に“待って”欲しい時なんて、一度もなかったんだよ。だから、いつも待たずに抱きしめてくれるオブが、俺はとても、とても好きだった。

 

『思い出すの、おそいよぉっ』

 

 そう、耳元で泣いてるみたいな声を上げるオブに、俺はとても懐かしい気分になっていた。あの日、俺が風邪でずっと会いに行けなかった時も、オブはこうして俺に抱き着いてきた。『イン、イン、イン』っていっぱい、初めて俺の名前を呼びながら。どうやら、俺の疾風はオブの所に向かったみたいだった。

 

 そのくらい、今は、オブの気持ちがゴウゴウと音がするのを、俺は抱きしめられながら聞いた。この音は、とても心地よい。すてき。

 

 だって、俺の為に吹き荒れる疾風なのだから。

 

 そんなオブに、俺はホッとしてこう言ったんだ。

 

『オブ!俺のこと覚えててくれたんだね!良かったぁっ!』

 

 その瞬間、俺は初めてオブが大声を上げて、赤ちゃんみたいに泣くのを聞いた。いつも、澄まして、何もありませんよって顔ばかりを見てきたオブの、本当に、初めての本気の涙だった。

 

『わっ、忘れてたのは、インの方じゃないかぁっ!』

 

 あぁあぁあああ。

 耳元で聞こえる泣き声に、俺は怒っていた気持ちは全部なくなって、なんだか仕方ないなぁという気持ちで、オブの背に手を回した。

 手を回して、よしよしと撫でてあげると、ふと一つの文字が頭の中に浮かんできた。なつかしい。それは、最初にオブに教えてもらった文字だった。

 

 しあわせ。幸せ。幸福。

 

——-しあわせは、丸かったんだ。この中に、嬉しいとか、大切とか、大好きがいっぱいはいってるんだね!だったら、この丸はきっと腕なんだ!

 

『本当に、しあわせは腕の中にあったんだ』

 

 俺は泣き続けるオブの肩に頬を寄せると、ただ静かにその幸福をめいっぱい抱きしめた。