268:唯一のお気に入り

 

 

        〇

 

 

 

「アウト、もう。そろそろいいんじゃない?」

『な、にが?』

 

 俺は目の前で行われる、3つの影のやりとりを見つめながら、何をどう思ってよいのか分からなかった。そして、そんな俺の隣では、ずっと、このそよ風のような男の子が俺の肩を抱いてくれている。

 暖かい。まるで、春のそよ風のよう。

 

「本当はさ、僕。アウトには僕と同じように、世界を嫌いでいて欲しかったんだけど、こんなに面白いモノを見せてくれたし……もう、いいかなって思ったよ」

『……あの』

「アウト」

 

 さっきまで、まるで悪魔みたいな笑顔だと思っていた顔が、まるで俺を幼い子供でも見るような目で見つめてくる。見た目は俺よりもうんと年下で、少年みたいなのに。

 どうしてだろう。この人は、ずっとずっと長い時間を“一人”で生きてきたみたいな、凄く寂しそうな目をしている。寂しさとずっと手を繋いで歩いてきたみたいな。

 

 おとなの目だ。

 

「そろそろ、自分の幸福の為に傷付く勇気を持ちな?」

『……ヴァイス』

 

 俺は扉が開いた瞬間から、スルリと頭の中に浮かんでいた名前をポソリと口にしていた。

 そう、彼の名はヴァイス。お酒が好きで、歌うのが好きで、好奇心旺盛で、無邪気で、風みたいに軽やかで、そして誰よりも寂しがり屋なひと。

 

「やっと、僕の名前も思い出したんだね。嬉しいよ。アウト。僕の一番のお気に入り」

『ヴァイス、俺は』

 

 寂しいのなんて誰よりも嫌いな筈なのに、世界によっていつも一人ぼっちにさせられる。一人が嫌だから、同じ寂しさを他者に売って歩く。そんな寂しがり屋が、自分の寂しさを堪えて、お店を閉めてしまった。

 

「ほら、早く行かないと。君の心に言葉を返してあげなきゃ。いや……違うね。君が彼を受け入れないと。あの子の言葉はね、アウト。君が口にするしかないんだよ」

『…………』

 

 そう言って、ヴァイスは優しく俺の頭を撫でる。

 閉めたお店の中で、またヴァイスは一人だ。こうして彼は、俺が居なくなった後も、ずっと、ずっと6つ目の輪に取り残されたまま、また様々な事を忘れては、少しずつおかしくなっていくのだろうか。

 

『ヴァイス。俺は君を幸せには、してあげられない。俺は、君の鍵を、持っていないから』

「うん、分かってる。それはもう、嫌って程わかってるから」

 

 そう言って、ヴァイスは俺の目をジッと見つめた。

 けれど、その瞳は俺の目を見つめているようでいて、その実、ずっと遠くを見ていた。それは、これまでヴァイスが数えきれない程、繰り返して来た、後悔と苦しみと、そして寂しさだろうか。

 

 その目に、俺は改めて思う。

 

 俺はヴァイスの奥にある寂しさが、風によって舞い上がる花びらのような儚さが、

 

『好きだよ。ヴァイス』

「な、にさ。急に。ウィズがすぐ傍に居るのに、アウト。なんて事を言ってるんだい。冗談でもそんな事を言ってみな?あの重い重い石頭はカンカンになって、僕をこの輪から突き落としちゃうよ」

———-まぁ、どうせ。突き落とされても、僕はまたよじ登ってきちゃうんだろうけどさ。

 

 そう、諦めを含んだ言葉と共に、ヴァイスの目が逸らされた。

 俺はヴァイスが好きだ。

「僕のお気に入り」なんて、きっとヴァイスにとっては何て事のない言葉だったかもしれない。今まで数多くの人に放ってきた言葉かもしれない。

 

 けれど、そう無邪気に口にしてくれた事が、どれだけ俺の救いになっていただろう。

 

『ヴァイス。俺の“唯一の”お気に入り』

 

 自分で“お気に入り”を選ぶしかなかったあの世界で、俺の事をお気に入りだよと、笑ってくれた事が、俺は本当に嬉しかったのだ。

 

『聞いて』

 

 俺は逸らされたヴァイスの顔を俺の方へと向けると、ソッとその額に口づけをした。その瞬間、ヴァイスの瞳が、これでもかという程大きく見開かれる。

 

「アウ、ト?」

 

 あぁ、ヴァイスのこんな顔、俺は初めて見る。俺は今まで、彼のおどける舞台役者みたいな顔しか見た事がなかったから。少しだけ、してやったりと胸のすく気分だ。

 

『ヴァイス。俺は君の鍵は持っていないし、外の世界で、君を唯一として愛する事は出来ないだろう』

「……その調子だよ。アウト。それでいい」

『だけど、』

 

 俺はヴァイスの片手を俺の手で掴むと、そのまま俺の下腹部へと連れて来た。つれてきて、その温もりを分け与える。

 

『キミを、もうこの世界で一人になんてさせない』

「え」

『ヴァイス、此処で、終わりにしな?』

「っ!」

 

 そう、俺はこの唯一のお気に入りを、俺と共に”終わらせる”事にした。

 本当は彼の後悔の根っこを絶たせて、彼自身で彼を終わらせてあげたかった。ヴァイスというマナの残滓は眠りにつき、川が流れるように、次の新しい人生を生きて欲しかった。

 

『ヴァイス。いつか、俺もこのアウトという真名の人生を終える日が来るだろう。そうしたら、俺はアウトの真名の残滓として、鍵のかかった部屋で、永遠に眠り続ける。前世なんてない、一度きりの人生を、次の誰かが始める為の邪魔にならないようにね』

「…………」

 

 ヴァイスの手の温もりが、俺の下腹部にじわりじわりと広がって行く。これこそが、インと二人でくっついた時には感じる事の出来なかった温もりだ。

 

 “二人”の温もりだ。

 

『だから、終わる時は、俺の部屋においで』

「…………いいの?」

『良いも何も、これは俺がお願いしてるんだよ。一緒に眠って。おねがい、ヴァイス。俺もいくら最後だとしても、一人は嫌なんだ。だから、終わる時は一緒に居よう』

 

———-一緒に閉じ込められて。

 

 俺の懇願に、ヴァイスはしばらく目を丸くして、ジッと俺を見ていた。今度は遠くじゃない。本当に、正真正銘“アウト”を見ている目だった。

 

「アウトは、やっぱり異端だ」

『ヴァイスも異端だからね。一緒でしょ?』

「そっか。そうだった。僕も異端者だった」

 

 異端者同士。

 そう、俺達は真逆の似たもの同士なのだ。きっとあの狭い部屋の中でも上手くやれる。

 

 そして、これは互いを“愛していない”からこそできる約束だ。

 だって、同じ場所に閉じ込めたら、もう二度と外の世界で出会う事はなくなる。永遠にヴァイスは俺の中で眠り続けるのだから。

 

「はぁっ、まったくアウトってば。ここまで何でも受け入れるなんて……道理で僕が君の器の存在を感知できなかった筈だよ」

 

——–あー、これは、これは。もう完全に“ナイ”ね。

 

 下腹部に触れるヴァイスの手の温もりに、俺は“あの日”ヴァイスが俺の余剰のマナを溜めておく器がないと言っていた事を思い出した。

 

「アウト、君は器が大きすぎ。こんな広い世界を有されたら、気付けっこない!だって、広すぎて触れないんだもん!もう、まいっちゃうよ」

『どうする、ヴァイス?俺と一緒に“終わる”。それとも、終わると思ったら怖くなった?』

「……ふむ。どうしよっかなぁ」

 

 俺の提案に、ヴァイスがわざとらしく考え込むフリをする。もう答えは決まっている癖に。あぁ、なんて子供っぽい真似をするのだろう!

 

 再び”出会う”機会を自らの手で断つという、永遠に共に居る為の、永遠にお別れの約束。

 だから“唯一”のお気に入りであるヴァイスにしか、これは許せない約束だ。

 なにせ、俺は――。

 

『俺は、気に入ったモノは部屋に飾らなきゃ気が済まないんだ』

 

 酒のラベルも、射出砂で記録した描画も、良い匂いの香油も。お気に入りの色砂も。全部、お気に入りは、あの狭い部屋に閉じ込めてきた。だったら、唯一のお気に入りであるヴァイスもそこに入れてあげないと。

 

「へぇ!僕はアウトの調度品ってワケだ!いいよ!それって凄く素敵な響き。二人で狭い部屋で、眠ったり、歌ったり、お喋りしたり。ずっと、二人で居れる。ずっと二人で“終わり”続けられる」

 

 ヴァイスは俺の下腹部から手を離すと、勢いよく俺の体に抱き着いて来た。苦しい程、とは言わないけれど、心地よい力強さで抱きしめてくるヴァイスの腕は、やっぱり俺のお気に入りのようだ。

 

『……あ』

 

 抱き着かれたヴァイスの肩越しに、俺はハッキリと彼と目が合うのを感じた。

 あぁ、こうして彼と目が合うのは、向き合うのは、何時ぶりだろうか。

 

『じゃあ、そろそろ俺は、俺達の余生を愉快に過ごせるように。あの、閉じ込めてきたアウトに言葉を与えてくるよ』

「うん、そうしな。僕はここで高みの見物ならぬ、対岸の見物でもしてるからさ。一発も二発も、ガツンと物申してきな」

『うん、いってくる』

 

———–いってらっしゃい。僕の一番にして、唯一のお気に入り。

 

 ヴァイスのその言葉を背中を押されると、狭い部屋で聞こえてくる、懇願するような声に向かって歩を進めた。

 俺はそろそろ、自分の為に闘って傷つく勇気を持つべき時が、来たのだ。