274:即時、一杯の酒

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 目覚めた。

 

 

「……起きた」

 

 

 俺は脳内と、言葉で同時に同じ意味合いの言葉を発すると、ゆっくりとベッドから体を起こした。

 俺のベッドのすぐ脇には眠るウィズが上半身だけベッドへと体を預けている。そして、ふとベッドの脇の灯台の上を見てみると、そこには1本の酒瓶。

 

「なんだ?」

 

 どうやら、それはまだ栓の開けられていない酒のようで、傍には、俺がウィズから貰った1冊の手帳が開かれた状態で置いてあった。

 

———–おしあわせに。

 

 そう、風のような颯爽とした字で書かれた言葉に、俺は思わず笑ってしまった。あの酒好きから、まさか酒を贈られる日がこようとは。

 

 俺は自らの下腹部に手をやると、そこに感じる、今まで感じた事のないような大量のナニかを、ハッキリと感じた。もしかして、これが皆の言う、マナという奴だろうか。

 そう言えばと、眠る前に真っ赤に腫れていた手や傷のついた腕を見てみれば、そこには傷一つない俺の体。

 

「ありがとう、ヴァイス」

 

 そう、酒瓶を持ったまま小さな声で呟く俺の元へ、キィと静かに扉の開く音が聞こえてきた。チラと傍に居るウィズを見てみれば、まだ起きる気配はない。

 きっと向こうで、俺の真名を支えてくれているのだろう。

 

 誰かが、部屋へと入ってくる。

 

「おはよう。アボード。昇格試験は、どうなった?」

 

 眠るウィズの頭を撫でながら、俺は扉に目を向ける事なく尋ねた。見なくても分かる。あぁ、マナってこんなにその人にとって重要なモノだったのか。もう扉が開く前から、感じていた大切な弟のマナの気配に、俺は本当に帰ってきたのだと、心底実感した。

 

「っバカが……、今は夜だ」

「そうか。まぁどっちでもいいや。アボード。多分、あれじゃあダメだったんだろ?おいで、泣くなら兄ちゃんの所で泣け。慰めてやろう」

「誰が泣くか!?いつも泣きついてるみたいに言ってんじゃねぇぞ!」

 

 そう、何時ものように食ってかかる弟の姿を、俺は改めて視界に入れた。

 あぁ、本当に。俺の弟はなんて格好良いんだ。騎士団の誰よりも、一等格好良いじゃないか。

 誇らしいったらないよ。

 

「あれ?そうだったか?俺の記憶だと、お前はよおく兄ちゃんに泣きついてきてたような気がするんだけど」

 

 わざと、兄ちゃんと言う。わざと、泣いていいと口にする。

 だって、扉の外にはバイとトウ、それにアバブが居るのも分かるから。皆のマナを、この身いっぱいに感じるから。

 

「1週間も寝こけやがって。ウィズも……マスターもお前を離さねぇから、連れていけねぇし。かと思ったら普通に起きやがる。腹立って仕方ねぇよ。心配して損した」

「……あ、アウト?」

 

 入口でブツブツと悪態をつく、アボードの後ろから、ソロソロと顔を出して来たのはバイだった。あぁ、バイ。お前、本当に格好良い癖に、なんでそんなに可愛いんだ。

 目の中に入れても痛くないくらい、可愛いじゃないか。

 

「バイ?どうした、何泣きそうな顔してる?おいで、額に口付けをしてやろう」

 

 俺が笑いながら言うと、バイは「うああぁぁぁん」と半分絶叫、半分大泣きしながら俺に駆け寄ってきた。そして、俺の脇にウィズが寝ているのなんてお構いなしに、ベッドに激突してくる。

 その衝撃で、下の方から「っぐ」という、ウィズのくぐもった悲鳴が聞こえてくるが、ウィズは大丈夫だろうか。

 

「あうどー!よがったぁぁ!おぎたー!」

 

 まぁ、もうすぐ起きるだろう。こんなにうるさいのが近くに居るのだから。

 さて、ウィズが起きる前に、バイへの口付けは終わらせておかないと。きっと酷い目にあう。

 

「あ゛うど!!もう!こんなグゾ捨てろーー!」

「ハイハイ。ウィズを叩かない。ほら、額を出せ」

 

 眠るウィズの後頭部を容赦なく殴るバイに、俺はウィズに額を出すように指示した。止めろと言うより、その方が十分、バイにとっては効果があったようで、素直に両手で自身の前髪をかきあげた。

 俺はバイの額に口付けをすべく額に顔を寄せる。その視界の端で、トウが此方を鬼の形相で見つめるところ、アバブが急いで自身の鞄からメモ帳を取り出す瞬間を目にした。

 

 あぁ、帰ってきた。ここは俺の世界だ。

 アウトの世界で、アウトの人生で、此処に居るのは”俺”を望む人達だ。

 

 額への口付け。出来れば此処に居るウィズ以外の全員に送りたい気分だ。それくらい、今の俺は誰かを祝福したくてたまらない。

 貴方が大切だと伝えたい。

 

 けれど、

 

「……起きて早々、お前は一体何をしているんだ」

 

 俺の寄せた口付けは、バイの額にではなく、とっさに伸びて来た誰かの手によって遮られた。遮られたと言うより、俺はその人の手に口付けをしていた。

 

「アウト、お前は何度言っても分からないようだな」

「ウィズ」

 

 ウィズの不機嫌そうな表情が、騒ぐバイを押しのけ俺の目の前へと現れる。「どけどけ!」と騒ぐバイを、ウィズは片手でいなすと「トウ、コイツをどうにかしろ!」と、似合わない大声を上げている。

 

「アウト先輩、あの。お久しぶりです。あの、あの、今度射出砂を持ってくるので、お二人の様子を描画させてもらっていいですか?もうスケッチじゃ、この滾りは追いつかないのでっ!」

 

 あぁ、バイ。色々と久しぶりで、様々な俺の危機的状態を見て来ただろうに、起きて早々このいつも通り具合。

 俺はお前のそういう、好きなモノに対して真正面から正直で、心底楽しそうな所が大好きだよ。好きな色を偽らないアバブが、俺にとってはとても気持ち良いんだ。

 

「好きなだけ描画するといい」

「いいんですか!?ウィズさん!」

「どけどけどけ!どけよ!ウィズ!俺はアウトに口付けしてもらうんだ!」

「だーかーら!バイ!俺がしてやるから!」

 

 途端に騒がしさの増すベッドの周囲。それを入口で腕を組みながら見つめてくるアボードに、俺は軽く視線を向ける。フイと逸らされる素直ではない弟の、その目は明らかに普段より真っ赤だった。

 

「アバブ、その代わりアウトが俺以外と何かよからぬ事をしていた場合も、描画するんだ。そして、余すところなく俺に見せろ。いいな!?これは同じ職場の君にしか頼めん!」

「あぁっ!現実にこんな立派な束縛攻めが存在したなんて……っ全部余す所なくご報告いたします!」

「アウト!口付けは!?」

「だからっ!俺がしてやると言ってるだろ!?バイ!」

 

 騒がしい。騒がしい。なんて騒がしいんだ。

なんて、幸福なんだ!

 

 俺は騒がしい皆を横目に、ヴァイスから贈られた一本の酒の瓶を、爪で難なく開けた。あれ、今、全く力を入れていないのに、栓が開いた気がする。

 まぁ、いいか。今はそんな事。

 

「おいっ、アウト!お前何をっ」

 

 ウィズがチラと俺を見た瞬間、俺はその酒瓶に一気に口を付けた。

 あぁっ、やっぱり酒は最高だ。素晴らしい!この世の宝で、病める時も健やかなる時も、共にあり続けるだろう。

 

「ぷはっ!美味しいっ!」

「アウト!」

 

 久々の酒に、俺は一気に体と頭が沸騰するような感覚に陥ると、酒瓶を灯台の上へと戻した。一口飲めば十分だ。俺の中に居た時のように、充分、ヴァイスには背中を押して貰えた。

 

「ウィズ、怒らないで。俺はウィズを世界で唯一愛しているから、だから」

「っ!」

 

 平行線を辿る攻防を制するのは、理屈でも言葉でもないと、俺は学んだ。

 学んだので、俺は本当の意味で体得した“素直さ”で、ウィズを絡めとる。絡め取って、絶対に離さない。

 だって、こっちにはオブも居るんだ。俺から離れたら絶対に許さない。悪いけど、オブはウィズへの人質なのだ。大切に俺のところで人質生活を満喫してもらう。

 

「ウィズには特別に口に、口付けをします!」

 

 アバブの言うソクバクゼメがどんなモノかはよく分からないが、俺はこれまで世界に対して向けられずにいた巨大な“執着”を、全て余すところなくウィズに向けるつもりだ。

 覚悟して欲しい。

 

「ほら。おいで、ウィズ」

 

 俺はウィズの腕を引っ張り、顔を無理やり俺に向けると、周囲の目など気にせずその口に口付けを落とした。その瞬間、口付けをしたウィズの目の色がパチリと起動装置を押したように、色が変わったのを、俺は間近に目撃してしまった。

 

「んんっふ」

「っ」

 

 なにせ、相手はあのウィズだ。ソクバクゼメというのは、きっと口付けが激しいセメの事を指すに違いない。

 

 アバブとバイの悲鳴が聞こえる。

 アボードとトウの呆れかえった視線を感じる。

 

 でも、まぁいいか。

 きっとアバブは喜んでくれているだろう。なにせ、俺はヘイボンウケしか持っていなかったのだ。そこにシュウチャクウケが入ったら、きっと俺はもっと凄いウケになるに違いない。

 

 多分ウィズのソクバクゼメには負けないだろう。

 “ソクバクゼメかけるシュウチャクヘイボンウケ”の相性が良いのかどうか、俺は後でアバブに尋ねなければ。

 

「っふ、はぁっ、はぁっ」

「アウト」

 

 長い長い、口付けの後、解放された俺は呼吸もままならないまま、ベッドの上に両手をついた。口付けって、こんなに苦しくて体力を使うものだったのか。知らなかった。

 

「……はぁ、はあ。うぃず」

「アウト、お前は本当に覚悟しろよ。俺は、まだまだこんなものではないぞ」

 

 ウィズの唸るような言葉に、俺はなんだか嬉しくて仕方が無くて、大きく深く、頷いた。ついでに、唾液で濡れた唇をペロリと舌で舐める。

 

「……うん、楽しみにしてる!」

 

 その俺の言葉に、ウィズは何故かその後集まった皆に「帰れ」と大いに騒ぎ立てていた。まぁ、誰もウィズの言う事など聞かなかったが。

 こうして、俺はウィズとの”あいしてる”の始まりの線から、一緒に一歩踏み出したのだった。