『ところで、だ。どうした、スルー。こんな夜に、また此処へ来て』
『っは!』
あぁっ!そうだった!
俺はこんな場所に、狼に噛みつかれに来たのではなかった!
俺はヨルの問いかけにハッとすると、山肌に近い位置の土を取るべく、持ってきた麻袋を持ち直した。
『少し、試したい事があってな。ヨル、こんな所まで連れてきてしまって悪かったが、この辺はいつ狼が出るか分からん。先に帰った方が良いぞ』
『おいっ!』
俺はヨルに帰るように言いながら、そっと山肌の土に触れてみた。やっぱり固い。昼間も思ったが、此処の土質は、どちらかと言えば水気を多く含むモノのようだ。さて、どうにかこの土を取り崩して、村へと持ち帰らねば。
周囲を見渡し、俺は近くに落ちていた太い枝を手に取ると、それを勢いよく山肌の土へと突き立てた。これで土を削り取ろうと思ったが、もしかすると、この枝が先に折れてしまうかもしれない。
『っく、固いなぁ』
うむ。本当に固い。これは、少なくとも1年はしっかりと地盤を強固にしている証拠じゃないだろうか。とすると、去年は此処で土砂崩れは起こっていないのではない可能性が高い。
去年の、あの村に甚大な被害をもたらした疾風を前に、この山肌は、崩れていない。その可能性が高い。だとすると――。
『っふ、っく、っぐ!』
『おいっ、スルー!一体何をしている!』
『あぁ、ヨル。まだ居たのか』
『まだ居たのか、だと?』
俺が必死で枝を使って山肌の土を削り取っていると、隣にやって来たヨルが急に不機嫌そうな声を上げた。いや、だってヨルは此処に用などない筈だ。それならば、早くこんな場所からは離れるに越した事はない。
なにせ、ここはどうあっても村より自然に近いのだ。本当に狼など出たら、俺もヨルも一たまりもない。
『スルー……』
『ん?』
がぶり。
『っひ!ま、ま、また!』
俺が真面目にヨルの身を案じていたのに、またしても背後から、俺の首に“あの”感触が走った。あの、ヌルリとした、生暖かい、そしてツキリとした痛みの走る感触。
また!また!また!!
『狼が出た!もう!っん!噛むな!ヨル!っひ』
しかも、今度は噛みつく時間が長い。そして、背後から俺の背に抱き着くように首筋に噛みつかれているせいで、抵抗しようにも、何をどうする事も出来ない。ヨルの鼻息が首筋に当たる、変な感覚だ。歯を立てながら、舌がヌルリと肌に滑る。
今日は昼間はずっと此処にいたせいで、かなり汗をかいた。その上、俺は水浴びもせずに、ここに走ってきたせいで、きっと相当汚いはずだ。きっと汗臭さもあるだろう。それなのに、どうしてヨルは平気な顔で、何度もこんな事をするんだ!
足の時といい。今といい。ヨルは貴族の癖に、汚いモノに平気で口をつける。
『ヨル、もう、やめて……汚いぞ。本当に、びょうきに……っん!』
まだまだ続く、ヨル狼の噛みつき。
どうやら、俺は相当、この狼を怒らせてしまったようだ。背後から回されたヨルの腕が、きつく俺の体を締め上げるように巻き付いてくる。これは、まるで蛇のようじゃないか。狼なのに、蛇でもある。ヨルは一体何なんだ!
『っぐぅ』
もしかして、怒り過ぎて、俺を絞殺そうとでも言うのだろうか。
あぁ、もう。首筋に走る、歯と舌の感触、そして定期的にかかる鼻息で、頭がクラクラする。
『スルー』
『っう、な、なんだ?』
俺が余りの事に、手に持っていた枝をポロリと落とした時、俺の首筋からヨルの口の感触が消えた。代わりに、耳元でヨルの声が響く。あぁ、やっぱりいつ聞いても素敵な声だ。けど、なんだか今日の声は、またいつもと違う。
なんだか、こう、夜の美しい川べりのように、艶やかで濡れたような声だ。
『俺を、袖にするな』
『そ、で?』
『……のけ者に、するな』
『あぁ、そういう』
そでにする。初めて聞く言葉だが、そう言う意味なのか。あぁ、ヨルは俺がヨルを邪魔者扱いをしたと思って怒っていたのか。だから、噛んだのか。
『まったく、ヨル。お前はそうやって、腹を立てる度に何でも噛んだらいけない』
『お前以外に、誰がこんな事をするか』
『俺にも、しないでくれ……』
ソッと背後から離れて行ったヨルに、俺は、またしても濡れる首筋に手をやった。今度はきっと先程よりも見事な歯形がついている事だろう。
『スルー、お前は一体ここで何をしようとしている』
俺の隣で、何事もなかったかのようなスンとした顔で尋ねてくるヨルに、今度こそ俺は観念した。ここで先程のように「早く帰れ」とでも言おうものなら、きっとヨルはまた、俺に噛みついてくる筈だ。
いや、2回目があんなに激しかったのだ。3度目は、噛みつくだけでは済まないに違いない。きっと俺など食べられてしまうだろう。
『……実験を、したくてな』
『何の実験だ?』
『土砂崩れの実験だ』
『ほう』
俺の言葉に、やっぱりヨルはバカにしたような返事ではなく、とても興味深そうな返答をくれる。このヨルの頷きや返答を聞くと、どうも俺は嬉しくて、本来ならば口にしないような事でも話してしまいたくなるのだ。
それこそ、あの日の夜のように。
———-敬愛の念を抱く。
ヨルなら、俺の言う事をバカにしない。きっと最後まで聞いてくれる筈。
『なぁ、ヨル』
『言ってみろ、スルー』
俺はヨルに噛まれた首筋に手をやりながら、なんと言ったものかと視線を彷徨わせた。そして、彷徨わせた視線が吸い込まれるように、ある一点で止まる。
そこには、静かで、泰然としたヨルの瞳があった。バチリと互いの目が合う。
『もしかしたら、山肌の補正など……もう、必要ないかもしれないぞ』
俺の言葉に、少しだけ大きく見開かれたヨルの目を見ながら、俺は、“いつもの俺”らしくない、静かな声でヨルへと伝える事にした。
ヨルなら、最後まで俺の言葉を聞いてくれると、どこか大きな安心感を覚えながら。