『そっか。俺は……ずっと、地面に引っ張られていたのか』
『……スルー、噛むぞ』
『っえ!?ちょっ!わっ!なんだ、なんだ!?っはは!ヨル!髪の毛がくすぐったい!』
俺が深く思考の中に潜っていると、いつの間にかヨルの口が、俺の耳元へと寄せられていた。どうやら俺は、またヨルの気に障る事をしてしまったらしい。
俺は一体、何度このヨル狼に噛まれれば気が済むのだろう!
『あはははっ!なんだ?ヨル!俺は何かまた狼の気に障る事をしたか?』
そう、顔のすぐ傍にあるヨルの頭を撫でながら尋ねてやれば、少しだけ不機嫌さを落ち着かせたヨルの声が、改めて俺の耳にスルリと入ってきた。
『怪我はなかったのか?』
『あぁ、俺の今、一番の怪我は……そうだな。どこかの狼に噛まれた、この2つの噛み後だろうな』
『そうか。なら良かった』
『いや、ちっとも良くないぞ!』
何が原因かは分からないが、俺の顔の横から離れて行ったヨルは、非常に機嫌がよくなっていた。口元に薄く浮かべられた笑みは、いつもそうだが、とても素敵だ。
『土砂崩れの続きだが……このような斜面の表層は、向心力で常に下へと引っ張られている。その力だけでは、きっとこのような斜面では、常に土砂崩れが起きている事だろう』
『確かに!けど、普段は土砂崩れは起きないな!』
『そうだ。向心力とは逆の力が、この斜面にも働いている。それは、固体と固体が互いに接している時に働く力。それを摩擦力という』
『……まさ、つ?』
難しい。
固体と固体が互いに接している時に働く力ってなんだ。全然ピンとこない。当たり前に起こっている事には、全て理由がある。その理由は、突き詰めていくと当たり前のように、分かったりはしないのだな。
『ぐぅ』
そう、俺が理解していない事を、ヨルはすぐに理解してくれたのだろう。ヨルは自身の眉間に人差し指を添えると、ブツブツと何かを呟いていた。どうやら、俺に理解させる為に、必死に考えているようだ。
『そう、そうだ。分かりやすく言えば、滑るのを我慢する力……向心力に、反発する力だ。地面で、樽を横にして転がしても、いつかは止まるだろう。その、樽を止める力が摩擦力だ』
『……おおっ!』
今度は分かった。そうか!確かに永遠に滑り続けるモノはこの世にない。全ての物はいつかは止まるし、動きにも終わりがある。
『ヨル!面白い!そうだな!永遠に転がり続けるものはないものな!俺は、それを知っていた筈なのに、それに“気付いて”いなかった!不思議だなぁ』
『当たり前に起こる事に気付き、観測し、発見するのは容易い事ではない』
『あぁっ!けど、全部に理由があって、全部に名前があるって思ったら、やっぱりそれは面白いじゃないか!俺も自分で気付きたかったなぁっ!俺は、ほんっとうに、何にも気付かず生きてるな!あはは!』
今日は本当に良い日だ!
当たり前の事を尋ねて、バカにされるだけじゃなくて、その当たり前が起こる理由を知る事が出来た。
ヨルのお陰で。そう、全部、ヨルのお陰だ!ヨルが教えてくれたから、俺は気付けていない事を知る事が出来た。当たり前は当たり前じゃなくて、当たり前になる理由がある!
『気付くって楽しいな!』
『…………』
そう思うと、俺のこれから毎日には“当たり前”の事なんて起こらなそうだ。
それに気付けて良かった!
『……次は教育、だな』
『ん?』
『いや……お前に教育の機会が与えられてこなかったのが、俺には口惜しくてならない』
よく分からないが、ヨルは、今度は悔しそうに眉を寄せた。今日のヨルは怒ったり、喜んだり、悔しがったり。それに、噛んだり。忙しいやつだ。
『何が口惜しいか分からないが、俺の分からない事はヨルが教えてくれたらいいじゃないか!でも、俺は出来るだけ自分で気付きたいから、分からない時だけ教えてくれ!』
『……あぁ、わかった。俺もそのために学び直さねばな』
ヨルなら何でも知っていると思うのだが、それでもヨルも学び直さねばならないのか。それなら、俺はこれからまだまだ沢山、沢山考えなければな!
『こうしんりょく。まさつりょく』
俺は今日知る事の出来た“こうしんりょく”と“まさつりょく”を忘れないように、心の中にしっかりと刻み付ける事にした。俺は文字が書けないから、記録を取る事ができない。だから、俺が忘れない為に記録に残すには、心に刻むより他なのだ。
けれど、どうしても名前が難しいので、上手く刻めない。どうにか身近なモノにこの名前を貼っておければいいのだが……。
『あ!』
『今度は何だ?』
『こうしんりょく。まさつりょく。そうか!俺がこうしんりょくで、ヨルはまさつりょくだ!』
『……また、おかしな事を』
『俺がヨルを見て駆け出していきたくなる気持ちが、こうしんりょく!そんな俺を、顔がぶつかるからと言って止めるヨルが、まさつりょく!』
———-つまり、俺とヨル!
そうだ、そうだ!こうすれば忘れない!俺とヨルの二人で、この世界の当たり前が出来ているんだ!
俺が思いついてしまった素晴らしい考えに『そうだろ!』とヨルの方を見てやれば、ヨルはなんとも言えない顔で、俺を見ていた。