(外伝51):金持ち父さん、貧乏父さん(31)

 

『俺が、摩擦力……か』

 

 何か不満でもあっただろうか。不満はいけない。だって、ヨルに不満が溜まると、すぐに噛んでくるのだから!

 

 俺はとっさに、先程ヨルに噛まれた首筋を守るように手で隠す。また噛まれでもしたら困るからだ。すると、そんな俺に、ヨルはと言えば、その形の良い口元にハッキリとした笑みを浮かべていた。

 

『……今度、摩擦力がなくなったらどうなるか。実験してやろう』

『おおっ!そうだな!』

 

 実験!ヨルと実験なんて楽しそうじゃないか!

まさつのヨルがなくなったら、どうなるだろう?樽を止める力が無くなるから、きっとずっとずっと転がり続けるというのが、俺の予想。

あれ?そうしたら、俺は一体どこまで転がっていくのだろうか。

 

 そこまで考えた所で、ヨルは一瞬だけ目を伏せると、いつもの静かな表情に戻った。そして、俺の隣にある山肌の土にソッと触れる。

 

『普段は、摩擦力がこの向心力を上回っている為に、土砂崩れは起きない。しかし、大量に振った雨が、地中に浸透し、土地を緩ませる。それにより、普段は地層がその場に留まろうとする摩擦力が弱くなる』

『……そうすると、こうしんりょくが、まさつりょくに勝つから、』

『土が下へと引っ張られて、土砂崩れは起こる』

『おおおおっ!』

 

 ヨルの説明に、俺は思わず山肌の土を勢いよく撫でた。撫でても表面の土は、その場にとどまり続けている。ヨルの言うまさつりょくが、ここに働いているのだ。

 

『摩擦力の力と向心力の力関係は、傾斜や土の在り方で変わる。傾斜が急ならば、向心力も強くなる。その為、土砂崩れも起こりやすい。この山肌の傾斜は……なかなかに急だな。補正するとなれば、本当に大がかりになるだろう』

『…………』

 

 ヨルの静かな言葉に、俺は幼い頃に見た、あの頃の荒地の街道を思い出していた。

あの日、俺の感じた理由の分からない恐怖。俺に襲い掛かってくるような、圧迫感のある恐ろしさ。その理由が、俺にはようやく理解できた。

 

『あの時、俺は……傾きからくる“こうしんりょく”が怖かったのか』

『スルー?』

 

 そう、そうだ!

あの時、俺は山肌に襲い掛かられると思ったのだ!野生の狼に馬乗りにされるような、そんな圧迫感と恐怖を感じた。そこには狼も、襲い来る土砂もある訳ではないのに、それを感じた。

 まさにそれこそ“こうしんりょく”を、俺が間近で感じた故の”恐怖”だったのだ。

 

 だとすると――。

 

『ヨル!この山肌は、凄く凄く緩やかになっている!昔よりも、ずっとだ!だって、俺は今日、ここに来たときに、それほど怖いと思わなかった!』

『ん?』

 

 幼かった頃の自分の感情が、今の俺にも気付きをくれる。あの日の俺の『どうして?』は無駄ではなかった!走った時の乱れた呼吸も、目の前に感じた恐怖も!

 

『ヨル、言ったよな!?転がした樽も、いつかは必ず止まるって!』

『あぁ、そうだな』

『だとすると、永遠に土砂崩れが起こり続ける場所なんてないよな!?』

『その通りだ』

 

 ヨルが頷いてくれる。そうだな、と。その通りだ、と。その頷きが、俺の心の樽をどんどん転がす。今、俺の心には“まさつりょく”はない!

 

『長い時間をかけて、この場所は何度も、何度も、崩れて、崩れて、崩れて!傾きが少しずつなくなっていった!だから“こうしんりょく”も弱くなって!この場所はもしかしたら、最近はずっと、ずっと、まさつりょくが、こうしんりょくに勝ってるんじゃないのか!?』

『っ!』

 

 俺の中の転がる樽は、勢いよくヨルへと向かって行った。

 ヨルが嫌がらずに手を差し伸べ続けてくれたおかげで、俺は、どうやら今回は自分で“気付けた”ようだ。

あぁっ!俺の昼間立てた予想は、やっぱり当たってるんじゃないのか!これは早く村に戻って、試してみないと!

 

『去年の疾風は、本当に強かった!名前はビヨンド君!アイツは俺の出迎えた疾風の中で、一番最強だったぞ!それでも、此処は崩れていないとしたら、もう此処ではきっと土砂崩れは起きない!試したい試したい!早く土を持ち帰って試したい!なぁ、ヨル!』

———-一緒に試そう!

 

 そう、俺が勢いよくヨルへと向き直った時だった。いつもは、転がって駆け抜けていく俺の樽を、ヨルが止める。ヨルは“まさつりょく”だから。けれど、その時ばかりは違った。俺の転がした樽を、否、俺自身を、ヨルは――。

 

『ああ!そうだな、スルー!お前は本当に素晴らしい!』

『あ、う、わっ!』

 

 ヨルは、それまで見た事がない程、頬を高揚させ、そして子供のようなキラキラした目で、俺を見ていた。その顔が、本当に、本当に、嬉しそうで、楽しそうで、俺は一瞬だけ目を瞬かせて固まってしまった。けれど、そんな石のような固まりも、すぐに解けた。

 

『……ヨル!ヨルヨルヨルヨル!うん、うん!素晴らしいな!楽しいな!早く一緒に帰ろう!今日は、俺はきっと眠くならない!ヨルと一緒に朝まで”試し”遊びをしよう!』

『そうだな。今晩だ。今晩、全部やってしまおう!』

『~~っ!!』

 

 なにせ、この時のヨルは俺と一緒に”転がる樽”になってくれていたのだ。もう、誰も転がる俺達を止められない!嬉しい!嬉しい!嬉しい!

 

 俺は、初めて感じる熱い気持ちに心が震えるのを感じると、ともかく居ても立ってもいられず、勢いよくヨルに抱き着いた。なにせ、俺はヨルに向かって落ちる石であり、転がされた樽なのだ。俺はヨルに向かう”こうしんりょく”!でも、今はヨルも“まさつりょく”じゃないので、俺を止めたりしない。

 

 あぁ、ヨル。俺は、思った。心の底から、思ったぞ!

 

『ヨル!大好きだ!』

 

 俺の叫びは、夜の荒地の街道に、駆け抜けるように響き渡った。

 

 

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