36:金持ち父さん、貧乏父さん(36)

 

———-上にある物は、必ず地面へと引っ張られるように出来ている。

 

 あぁ、確かに!確かにそうだった!

 

 

『ヨルっ!?』

 

 ヨルは、”こうしんりょく”に引っ張られて、見事に大岩の上から落ちた。こんなに勢いよく落ちて行く人間を間近に見る事など、滅多にない。いや、滅多にないどころか、ない!

 

『ヨル!大丈夫か!?』

 

 俺は落ちたヨルの後を追いかけて、ひょいと大岩の上から跳ねた。跳ねて、草原の上で蹲るヨルの隣へと駆け寄る。

 打った腰やら背中やらが痛いのだろう。ヨルはその、傷一つない美しい手で、自身の目元を覆い隠している。きっと、痛すぎて泣いているのかもしれない。

 なにせ、目元を覆う手の隙間から覗く肌は、酷く真っ赤だった。ヨルは薄汚れた俺達と違って、肌が白くて綺麗だから、すぐ分かる。

 

『ヨル……?』

『っく』

 

 真っ白が、真っ赤。これは相当痛いんだ。あんなに見事に“こうしんりょく”に引っ張られたのだから、仕方がない。

 あぁっ!なんて可哀想なヨルなんだ!

 

『ヨル。ヨル?泣いているのか?泣くほど痛いか?』

『……っ誰が、泣くか』

『背中が痛いんだろう?ほら、背中を見せてみろ。俺が、たくさんよしよししてやる』

 

 よしよし程度で痛いのが良くなる訳ではないだろうが、けれど、痛い部分は誰かに触れて貰うと、少しは楽になる。たぶん。きっとそう。

なにせ、インやニアが転んだり、体を打って大泣きした時『よしよし』と言って、その部分に触れていてやるだけで、多少大人しくなっていた。泣き止む訳ではないが、ピトと体を俺に預け『もっと、よしよしして』と甘えてきたものだ。

 

 人というのは、痛かったり、それに、辛かったりすると、他人に体を預けて甘えたくなるモノなのだろう。

 

『ヨル、ほら』

『……』

 

 俺は仰向けで寝転がっていたヨルを、それこそ樽のように転がし、横向きに寝かせた。ヨルは珍しく、俺のされるがままだ。

ただ、必死に顔を覆っているものの、俺がヨルの体を横に転がしたせいで、服の隙間から真っ赤な首筋がハッキリと見えた。これじゃあ、いくら顔を隠した所で意味はない。

 あぁ、本当に痛いのだろう。早く“よしよし”してあげなければ。

 

『よしよし。よしよし、だ。ヨル』

『……』

 

 けれど、いつの頃からだろう。インやニアは転んでも、体をぶつけても、余り泣かなくなった。それと同時に、俺に『よしよしして』とも、言わなくなった。

 それを“成長”の証なのだと言えば、容易い。だが、痛かったり、苦しかったりして泣かない訳ではない。

 

そう。二人共、泣きに行く“相手”が変わったのだ。

 

 今でも、あの泣き虫な二人の事だ。“泣かない”なんてあり得ない。泣いて、よしよしして貰う相手が、俺ではなくなった。俺にはそれが、どうしても寂しくて仕方がない。いつまでも一緒に居てくれると思っていたのに。

 

『なぁ、ヨル』

『……なんだ』

 

 『よしよしして』と、俺の体に抱き着いて痛みを納める二人の、その“温もり”こそ、俺の体に残る、傷の痛みを『よしよし』してくれていたのだ。

 俺は、いつかサヨナラしなければならない二人の家族を想い、腹の奥底に居る、小さな欠片のような本当の”スルー”が、キュウと縮こまったような気がした。

 あぁ、ヨルの体は暖かい。まったく、俺は悪い奴だ。本当は、ヨルの痛いのを治す為に“よしよし”している訳じゃない。俺が寂しくてスースーするのをどうにかしたくて、ヨルの体に触れているのだ。

 

 俺は、ずるい奴だ。

 

『ヨル』

『……なんだ』

 

 ヨルの名を呼んでみる。そうすれば、当たり前のように返される返事。けれど、この何気ない返事だって“当たり前”なんかではない。このヨルは、きっとインやニアよりも、ずっと早く俺にサヨナラをするのだろう。

 

『どうした、スルー』

 

 名を呼んだ癖に、何も言わない俺を不審に思ったのか、ヨルが背を向けていた俺へと体を向けようとしてくる。いつの間にか、ヨルの首元は、いつもの白い美しい肌へと戻っていた。

そんな、此方へと体を向けてこようとするヨルの体を、俺はソッと手で止めた。

 

『ヨル、そのままでいい』

 

 俺はよしよしの手を止め、ヨルの隣に寝転んだ。寝転んで、ヨルの背に頬を寄せた。寂しくて、手だけでは足りなくなってきたのだ。

そんな俺の行動に、ヨルの背中がギクリと強張るのを、俺は頬で感じた。

 

 あぁ、ヨル。勝手をしてごめん。ただ、背中が痛いヨルには申し訳ないが、俺もこうやってヨルに触れる事で、自分を“よしよし”してやらねば、もう、泣いてしまいそうなのだ。

 

『ヨルは、いつまで此処に居てくれる?』

『っ』

 

 俺は震えそうになる声を必死に抑え、つとめていつも通りの“スルー”であるように頑張った。その努力が実っているかどうかを知るのは、ヨルだけ。ヨルだけなのだ。

 

『ヨルとのサヨナラは、いつ来てもいいように、俺は毎日頑張っているつもりだ』

『……』

『明日サヨナラだと言われてもいいように、俺はヨルと踊りたければ踊るし、歌いたければ歌う。ヨルが望むなら喉が枯れても歌い続けるつもりだ……けど』

 

 俺は背中からスウッとヨルの匂いを嗅いだ。好きな匂いだ。とても、好ましい。安心する。素敵な匂いじゃないか。このヨルの全てと、俺は、いつかサヨナラをしなければならないなんて!

 その時、俺は夕まぐれとのサヨナラした晩、あのヨルとの素晴らしいダンスをした時のように、思う事が出来るだろうか。

 

———俺はサヨナラを怖がらない!何故なら、俺は全部を“今夜”やってしまうからだ!

 

 いや、思えっこない。だって、ヨルとしたい事は、やってもやっても全然無くならないからだ。“全部”やっても、またすぐに、やっていない“全部”が生まれる。これじゃあ、まるでサヨナラの恐怖も消えないではないか!

 

 つまり、こうだ。

 

『俺は、ヨルとサヨナラするのが怖い』