『……スルー』
何をどうしても、無駄だった。毎晩、毎晩。いつ、ヨルが『スルー。帰る事になった』と、言いやしないかと震えるばかりだ。この村に居て、ヨルと一緒に過ごした時間なんて、俺の人生では、ほんのちょっとの時間でしかないのに、もうヨルの居ない毎日なんて、考えられない。
『俺は……ヨルが居ないと、寂しい』
———-全部、お前のせいだ。
そう、ヴァーサスが俺に言った。
———-お前、俺の息子に何をしようとした。
一体、俺が何をしたと言うんだ。
『ヨルが居ないと、俺は一人だ』
村の誰もが、俺の話なんて聞きやしない。でも、俺には家族が居るから、それで平気だと思っていた。毎日、夜にこの場所で、歌って踊れれば俺は満足だったのだ。それだけで、充分だった筈なのに。
ヨルがやって来た。
俺にはヨルしか居ない。俺の話を真剣に聞いて、理解して、素晴らしいなんて言ってくれる人は、ヨルしか居ないのだ。
『ヨル、ヨル、ヨル、よる』
返事はない。でも、それで良かった。俺は、今、少しだけ目がしぱしぱしていたから。目の前には、ヨルの白いシャツの背中が見えるだけだが、それすら、少しボヤケて見える。もし、今ヨルから『山肌の補正が終わったら、帰る予定だ』なんて言われたら、きっと立ち直れそうにない。
『山肌の補正が終わったら、帰る予定だ』
『っ!!!!!!』
立ち直れないと思ったそばから、ヨルの無情な言葉が俺の耳をついた。
あぁっ!なんだって!?まさか、本当にその通りだったなんて!いや、そうではないかと思ってはいたんだ!
『ぅ、あ』
俺が混乱の余り、上手く返事が出来ずにいると、それまで俺に背を向けていたヨルが勢いよく体を起こした。体を起こし、草の上であぐらをかいて座る。そうやって座ったヨルの視線は、横向きに寝ていた俺の方へと注がれた。
目を見開いて、何も言えない、全くいつも通りではない“スルー”を、ヨルが少しだけ何かを堪えるような目で見下ろしていた。そんなヨルの目に、俺はそれまで目をシパシパさせていた塩辛い水の膜が、一気にジュワリと目の奥から湧き上がってくるような感覚を感じた。
あ、これは、危ない。
『と、言ったらどうする?』
『っ!!』
そう、ヨルの揶揄うような声色の声が、俺の耳にスルリと入り込んできた。
その瞬間、俺は先程の“何かを耐えるような”ヨルの目が、何を耐えていたのかハッキリと理解した。
『わ、わ、笑ってるのか!?』
『っくく、あぁっ。っふふ』
笑いを、耐えていたのだ。
俺は余りの衝撃と、先程の言葉が事実とは異なるのだろうという予想に、どうして良いか分からず、固まるしかなかった。そんな俺に対し、ヨルは笑い続けながら、俺の頭へと手を伸ばしてくる。
ふわり。
ヨルの美しい手が俺の髪に触れる。ヨルの手と洋服の隙間から、ヨルの香りがする。あぁ、やっぱり良い匂いだ。
そう思って、俺の頭をよしよししてくれるヨルを、目だけで見上げると、一体何がそんなに嬉しいのか、ヨルは非常に喜びに満ちた顔で、俺を見下ろしていた。
ヨルが、凄く笑っている。どうやら、今日のヨルは非常にごきげんなようだ。
『スルー。スルー?泣いているのか?俺が居なくなると、泣くほど寂しいか?泣くほど悲しいか?』
『……っうぅ』
『そうなんだろう?ほら、俺が、たくさんよしよししてやろう』
まるで、先程と真逆になってしまった。そこから、俺はヨルにたくさんよしよしをされていた。髪の毛を掻き分け、頬、顎の下、肩、腰。ヨルの手が俺の体をスルスルと移動しては撫でて行く。
『……ふぅ』
思わず息が漏れる。先程までの笑いを消し、ヨルの視線が少しだけ強くなった気がした。俺をよしよしするヨルの手は、止まる気配はない。嬉しい。
『はぁ……』
それが俺には異様な程に、気持ちよく。先程まで感じていた痛みや、苦しさが少しだけ良くなるのを感じた。
あぁ、よしよしってこういう感じなのか。そう言えば、よしよしはたくさんしてきたけど、されるのは初めてかもしれない。これは、確かに『もっと、よしよしして』と言いたくなる。
『スルー、俺もお前の質問に答える。だから、お前も俺の質問に、嘘も誤魔化しもなく答えてくれ』
『……ヨルも、俺に聞きたい事があるのか?』
『あぁ、お前に関しては、俺は殆ど無知だ。しかも、調べようにも、お前の事はどんな書物にも書かれていない。周囲から何を聞こうと、それで俺がどのような“予想”を立てようと、それはただの“予想”だ。真実ではない。お前に聞くより他、俺が真実を知る術はないのだ』
またしても、ヨルが難しい事を考えている。俺はヨルの“よしよし”をしっかりと感じる為に、目を閉じた。そうすると、より一層ヨルの手の感触を、気持ち良く感じる事ができる。心の奥底にある、小さな欠片のような“本当のスルー”も撫でて貰える。
『……わかった。交代で質問して答える遊びだな』
『そうだ』
ヨルの手が、俺の首の“ある部分”を撫でる。そこは確か、ヨルの2つの噛み痕がある場所だ。ひんやりしたヨルの手が、俺の首を指で撫でる。腹の下が、ゾクゾクした。
『まずは、俺から答えよう。俺が“いつ”帝国首都に帰るか、だが』
『……』
撫でられながら、俺はゴクリと唾を呑み下した。