『山肌の補正が終わり、あの荒れ果てた街道が交通の拠点として機能を果たすまでだ』
『……それって、いつ?いつだ?今度の秋か?』
声が震える。あぁ、こんな事なら『山肌の補正が要らないんじゃないか?』なんて気付かなければよかった。気付かなければ、ヨルがもっと、もっと此処に居てくれたかもしれないのに。
俺が心底、自分の“気付き”に後悔していると、それを悟ったのだろう。ヨルの静かな声が、少しの笑みを含みながら答えてくれた。
『スルー、お前が“気付いて”しまったから、俺はもう一季節分、此処に残る羽目になりそうだ』
『へ?』
余りにも予想外な言葉に、俺は呆けた声を上げてしまった。今、ヨルは何と言った?もう一季節分、と、そう言わなかっただろうか。
『本来であれば、俺の滞在期間は季節が一巡りするまで、と決めていた。つまり、一年。今度の秋で、出て行くつもりだった』
『けどっ!けど、なんだ!?』
俺は撫でられていたかった筈の気持ちよりも、ずっとずっとヨルの言葉の方が、待ち遠しくて、一気に目を見開き、体を起こした。体を起こし、ヨルの眼前に詰め寄る。
『っふふ。けど、補正をしないのであれば、俺は逆に“観測”する必要が出てきた』
『かんそく?』
『あぁ。お前が言ったのだろう?今年の疾風は数も少なく、威力も小さい筈だ、と。だとしたら、俺はあの山肌が本当に、どんな疾風に対しても、摩擦力が向心力に勝るのかを、見届ける必要がある。だから、』
ここまでヨルが言ってくれれば、俺にだって分かる。ヨルはあの山肌が、通常の疾風に対しても土砂崩れを起こさないか、“試さ”なければならないと言っているのだ。
だとしたら、帰るのは――。
『次の、次の秋?』
『そうだな。俺はお前のせいで、あと1年以上ここに居る事になった』
『ほ、本当か?』
『あぁ、本当だ』
『~~~~っ!』
ヨルの言葉に、その瞬間、俺の心はたくさん、たくさん跳ねた。
俺の体は“こうしんりょく”によって地面に引っ張られているが、心はそうもいかないようだ。きっと、俺の心が目に見えたならば、きっと今頃は、跳ねに跳ねすぎて、月をも超えた先にあるに違いない。
『……次の秋じゃなくて、次の次の秋』
ヨルは、まだまだ此処に居てくれる。次の、次の秋まで。
ただ、その事実は、酷く俺の心をぐちゃぐちゃにもした。まだまだ居てくれる事への嬉しさ。けれど、それと同時に、ハッキリと俺とヨルの“一緒”の時間への終わりが示された。俺は、余りその事実に目を向けたくなくて、自然とヨルから目を逸らしていた。
『……そっか』
『スルー。こっちを見ろ』
逸らした途端に放たれる言葉。その声に、俺は引っ張られるように、逸らしていた目をヨルへと戻した。あぁ、やっぱりヨルの言葉には、逆らえない。
そんな俺に、ヨルは、まるで俺の心などお見通しだと言わんばかりの目で、静かに俺を見つめていた。
『スルー。今は、先の事を考えるな』
『……うん』
そして、見ているだけでなく、ヨルの手が、またしても俺の頭を撫でてきた。しかし、頭を数回撫でたかと思うと、その手は、髪の毛を掻き分け、いつの間にか俺の耳に触れている。すこし、くすぐったい。
ヨルが俺に触れる。ヨルは、今ここに居る。
『今、俺は此処に居る。そうだろう?』
『うん』
『今、お前に触れているのは誰だ?』
『ヨル』
『そうだ』
ヨルの手が俺の耳朶をつまむように触れる、熱い。そこから、やっぱりヨルはお気に入りの、自分の歯形の痕のついた、俺の首筋に触れた。指の腹で、ツと触れられるその触り方に、腹の底にうごめいていたゾクゾクが、更に激しくなった。背筋もゾワゾワして、落ち着かない。
『スルー。これで俺はお前の問いには答えたぞ』
『うん』
『今度は、お前の番だ』
そう言われ、そういえばそんな“遊び”だったな、と思い出した。交代で互いの知りたい事を聞いて、答える遊び。
俺がそんな事を思い出している間も、ヨルの手は止まらない。止まらないどころか、次の瞬間、首筋から肩に移動していたヨルの手は、物凄い勢いで俺の体を押した。押された勢いで、俺の体は草原の草の上へと倒れ込む。
『ヨル?』
いつの間にか、月を背中に背負ったヨルが俺の視界いっぱいに広がる。ヨルの背負う月は、今日は細い細い満月だ。きっと、明日あたりは月が、夜空にかくれんぼする頃だろう。
『スルー、いいか?俺に“嘘”も“強がり”も意味はない。もし、お前がそのどちらかを俺にするようなら、俺はこの村も、街道も、全部放り出して、明日には村を出るぞ』
『っ!だ、だめだぞ。それはダメだ。わかった、ちゃんと答える。なんでも、答えるから、そんな怖い事は言わないでくれ……!』
急に何を言い出すのだろうか。ヨルは先程までとは違う、どこか必死な表情で俺に向かって怖い事を言った。ヨルは一体、俺に何を聞きたいのだろう。
強がりも、嘘もだめ。うん、分かった。
『ヨル。俺はヨルに強がりも嘘もしない。約束する』
『そうか……なら』
ヨルは俺に覆いかぶさった状態のまま、俺の服を腹から上へと捲りあげた。春の夜風が俺の腹に直接触れた。それは、ヒヤリと少しだけ冷たさを帯びた春風だった。
『スルー。お前は、あの村長の“息子”か?』
ヨルのハッキリした声が、俺の耳の奥まで突き刺さった。それと同時に、昼間のあの、老いぼれの言葉も共に俺の脳裏を過る。
———-お前、俺の息子に何をしようとした。
あぁ、誰が、誰の”息子”だって?