39:金持ち父さん、貧乏父さん(39)

『あんな奴は、俺の父親なんかじゃない』

 

 

 俺は自分の声が、まるで自分のモノではないような、聞いた事もない程の低い声を放つのを聞いた。あぁ、これはまるでいつもの“スルー”ではないな。

 けれど、仕方がない。俺はあの老いぼれの事が大嫌いなのだ。大嫌いだから、アイツの話をされると、月に居た俺の心も一気に“こうしんりょく”で地面に叩きつけられる。叩きつけられて、大怪我をする。

 それと同時に、腹の、いや、体中の傷がズキリと疼いたような気がした。

 

 あぁ、これはたまに起こる奴だ。幻の、傷の痛みだ。

 

『あんな奴は早く、くたばってしまえばいい』

 

 止まらない。止まらない。アイツの事を思い出すと、いつも腹の底に嫌なモノが渦巻くんだ。それが、今日は特に激しい。きっと昼間に、あの老いぼれに関わったせいだ。アイツには関わらないのが一番。そう、それが最も素晴らしい。

 

 なにせ、関われば俺の心は完全に囚われる。あの老いぼれの糞ジジイに。全てが持って行かれて、俺は一番汚い形をした“醜いスルー”になってしまう。

 ズキズキする。幻の癖に、とってもズキズキだ。

 

『早く、早く死ねばいい。死んで、俺の目の前から居なくなってくれれば、凄く清々するのに』

『スルー……』

 

そんな俺に、ヨルは眉間に深い皺を作りながら、捲し上げた服の下から現れた、俺の下腹の辺りを撫でた。そう、ちょうどその辺りに、アイツへの嫌な気持ちがいっぱいあるのだ。

何故だろう。ヨルの手がそこに触れた瞬間、ズキズキが少し、ほんの少しだけ落ち着いたような気がする。

 

『スルー、この傷は誰につけられた?』

 

 ヨルが尋ねてくる。そうだ。強がりも嘘もダメだった。ヨルには本当の事を言わなければ、ヨルが明日にはこの村を出て行ってしまう。そんなのは絶対にダメだ。

 

『……きず』

 

 この傷?どの傷だ?あぁ、腹の傷か、でも腹の傷も沢山あるからな。どの腹の傷か。あぁ、いや。どれだって構わないか。だって、付けた相手は一人なのだから。

 

『あの、老いぼれだよ。アイツだ。村長とか言って、無意味に威張ってるアイツだ。きっとヨルにも酷い事を言っただろう?ヨル、あんな奴の言う事なんて聞かなくていい。アイツは“悪い奴”だから』

『……』

『腹は蹴りやすいし、殴りやすいからな。よく、森に引きずっていかれて、一晩中殴られたもんさ。あぁ、そうそう。アイツは自分の拳や足がくたびれてくると、薪で殴ってくるんだ。もう消えたけれど、斧の背のところで、足を何度も打ち付けられた事だってある。あの時は足を切り落とされるのかと思って、さすがの俺も悲鳴を上げたぞ』

 

 忘れたくても忘れられない。俺は記憶したい事には、大事に大事に“名前”を付けて、意識しなければ覚えられないのに。どうして、こんな酷い記憶は消したくても、消せないのだろう。忘れられないのだろう。

 

『スルー』

『……あぁ、ヨル』

 

 ヨルの声が俺の名を呼ぶ。あぁ、良かった。ヨルが俺の名を呼んでくれなかったら、俺は今、自分が“スルー”である事を、忘れてしまいそうだった。

 

『ヨル……俺の事が知りたいか?』

『ああ、知りたい』

『たくさん、知りたいか?』

『あぁ、沢山知りたい。全部、知りたい。他の何よりも、今、俺はお前の事が知りたい』

 

 細い月をその背に背負いながら、俺の上でヨルが深く頷く。そうか、ヨルは俺の事を、一番知りたいのか。

 そう思うと、俺は先程まで酷く疼いていた幻の傷の痛みが、更に痛みを失った。ずっと、腹を撫でてくれるヨルの手が心地よい。素敵だ。ヨルは本当に、素敵。大好きだ。

 

『俺の体中にある傷が、いつ、どうやってついたものか。俺は全部、全部覚えている』

 

 俺の体には、消えてしまった傷から、今もヨルが撫でている腹の傷のように、治る事なく残り続ける傷もある。消えたものから、消えていないものまで、俺は全部を覚えている。俺は、たくさん、たくさん酷い事をされたんだ。

 

『ヨル、全部聞くか?聞いてくれるか?たくさん、あるぞ。消えたやつもあるけど、俺はそれも全部、全部、口にしていいか?なぁ、ヨル』

 

 あぁ、俺はなんて事をヨルに言っているのだろう。誰がそんな面白くもない話を聞きたいだろうか。ヨルが俺に“聞きたい”事があるのに、俺はそれを差し置いて、ヨルに“言いたい事”を言おうとしている。

 

『聞きたい。全部、聞かせてくれ。体の傷も、お前の過去も。全部、話せ』

『……一晩中かかるかも』

『一晩中かかってもいい。二晩かかっても、俺はお前の傍で、それを聞き続けよう』

『一生かかったら?』

『一生かけて、お前の傍で聞いてやろう』

 

 ヨルの嘘みたいな言葉が、俺の耳に響く。一生はさすがに、きっと、嘘だ。けれど、俺を真上から見下ろしてくるヨルの目には、嘘なんて一つも無くて、どこまでも“本当”の色しかなかった。

 

『一生か』

 

 なんだ。それなら、もっともっと、たくさん殴られたり、蹴られたりしておけばよかった。そうしたら、ヨルは首都には帰らず、俺の傍に“一生”居てくれたのに。

 そんなバカな事を考えている間も、ヨルは俺の腹の、どれかの傷を撫でてくれている。やっぱり、“よしよし”は気持ちいなぁ。

 

『ヨル。全部、全部によしよしして』

『ああ。消えた傷にも、消えていない傷にも、全部俺がよしよししてやろう』

 

 ヨルヨルヨルヨル。

 どうしてヨルは、俺にこんなに優しいのだろう。俺はヨルに何を返せるだろう。ヨルはあと、次の次の秋までしか居ないのに。それまでに俺は、ヨルにたくさん“お返し”を考えないといけない。

 

『ヨル。ありがとう』

 

 俺はそれだけ言うと、体を起こし、自らの服に手をかけゆっくりと服を脱いでいった。長い、長い俺の“傷”のお話が始まった瞬間だった。