(外伝64):金持ち父さん、貧乏父さん(39)

        〇

 

 

 今でも、俺の耳の奥で木霊する声が、ハッキリと聞こえる事がある。

 

 

———お前が居るから!お前のせいでっ!!お前なんか、早くくたばってしまえ!

 

 それは、幼い頃から、何度も何度も言われた言葉だった。

 その声を聞くのが嫌で、俺は頭の中に浮かんでくる、知らない歌をたくさん、たくさん、口ずさむようになっていた。歌を歌っていると、不思議な事に、頭の中にあるゴチャゴチャしたモノがなくなって、その歌で綺麗に埋め尽くされる。

 

 歌は、親父の声を消す為の大切な“お守り”だった。

 

『俺は、気付いたら親父に殴られていた。さっき、言ったのは、全部親父が俺につけたやつだ』

『ああ』

 

 静かに頷くヨルは、再び服を着た俺の体を、その上から撫で続ける。同じ“手”でも、殴られるのと、撫でられるのでは、こんなにも違う。殴られるのは物凄く痛くて、心の中が真っ黒になるのに、撫でられると、物凄く気持ち良くて、心の中が黄色の花の色になる。

 

 でも、やっぱりさっきのように服の上からじゃなく、直接撫でられた方が、物凄く気持ち良かった。

 

『俺の下には6人も弟が居るのに、何故か、殴られるのは、いつも俺だけだった。むしろ、親父は他の兄弟達には全員優しかった。それが、俺には訳が分からず……怖かった』

 

 理由も分からず振るわれ続ける暴力と暴言、そして向けられる冷たい目。

 

 物心ついた時から、俺は酷く親父に嫌われているようだった。けれど、俺は親父に、そこまで嫌われるような事をした覚えはなかった。

 いや、覚えはないというか、もう気付いたら殴られていたんだから、覚えなんてある訳ないのだ。

 

『母親は、どうしていたんだ』

『母さんは、見てた』

『見ていた、だけか?』

『悲しそうな顔をしていた』

『……そうか』

 

 そう、そうだ。母さんは、殴られる俺を見て、ずっと悲しそうな顔をしていた。けれど、だからと言って親父を止める訳でもなく、俺を慰めてくれるような事もなかった。

 

『まぁ、母さんも、あの家で自分の“役割”を果たすのに必死だったから、それは仕方ないんだ』

『役割?どんな役割だ』

『子供が死んだ時の為に、たくさん跡継ぎを産む“役割”。出来るだけ、産んだ子供を死なせないように育てる“役割”』

 

 女の人の役割は大変だ。子供なんて弱いから、何かあったらすぐに死ぬし。だから、子孫を残す確率を上げる為に、たくさん産む必要がある。だから、母さんは俺の他に6人の子供を父から産まされていた。

 

『で、親父は弟達には優しかったからな。家の中で俺を殴ると、弟達が怖がるからと言って、そのうち、俺は夜の森へと引きずっていかれるようになったんだ』

『……』

 

——来いっ!

——っう、いやだ!いやだっ!

——うるさい!黙ってついて来い!

 

 子供の頃は、何故親父は俺をこんなにも殴るのか不思議でたまらなかった。

 

『ヨル、俺には親父がどうして、あんなにも俺が憎いのか分からなかった。分からないとか、気付けないって、俺はモヤモヤして嫌いなんだ。だけど、親父も周りの大人も、母さんに聞いても、誰も教えてくれなかった。だから――』

 

 俺は、今にも消え入りそうな細い細い三日月を見上げていた視線を、ゆっくりと隣に座るヨルへと向けた。ヨルは俺の視線も、気持ちも全部受け止めて、ただ俺の言葉を待ってくれている。

 

『ずっと、親父を観察した。母さんの表情を観察した。周りの状況や、大人、それに自然や、本当に、全部全部を見て、ずっと観察し続けた』

 

 殴る親父の目を見た。その時の言葉を聞いた。傷だらけで森から帰ってきた時に、俺を出迎える母の表情を見た。弟達と、俺との違いを、くまなく探した。周囲の大人達の、俺への態度を、親父が居る時と、そうでない時で違いがないかを見比べた。

 

『あとな。親父が、俺を本気で殺そうとする時があるんだ。それは数年に1度ある時もあるし、1年間に2度ある時もあった。その都度、俺は必死に親父から逃げるんだ。逃げて隠れて、ともかく親父の俺を殺そうとする感情の波が去るまで、必死に隠れ続けた』

『……』

 

 親父が俺を殴る手が、一際酷くなる瞬間。俺を殺そうとする瞬間には、とても分かりやすい法則があった。それは――。

 

『弟が死んだ時だ』

『死ぬ?』

『そうだ。俺の弟達は、何故か軒並み体が弱くてな。成長しきる事なく、すぐに死んでしまっていた。6人も居たのに、今じゃ俺と末の弟一人しか残っていない。他は全員死んだ。けど、残った末の弟も、物凄く体が弱い。頭は良い子なんだけど、あまり外には出られないんだ』

 

 あれだけ親父から優しく、暴力など振るわれる事なく育てられてきた弟達だったのに、コロリコロリと、あっけなく死んでいく。逆に、親父から暴力を振るわれ、殺されかけていた俺が、生き残っているんだから、おかしいものだと思う。

 

『弟が一人死に、二人死に。その度に、俺は親父から、いつも以上に殴られた。そして、いつも弟が死ぬ度に、言われるんだ』

 

——–お前が死ねば良かったんだ!死ね!早く、くたばってしまえ!

 

『酷いな』

『あぁ、ひどい奴だ。けど、お陰で、俺は絶対に死んでなるものかと、必死で走って逃げて逃げて、生き延びた。俺はアイツからの暴力で死にかけて、アイツからの暴力で生き延びる事が出来たのかもしれないな』

『……そんな訳、ないだろう』

『そうか?』

『そうだ』

 

 俺とは反対側にあるヨルの手に、きつく拳が握られている。あぁ。ヨル。その手はいけない手だ。その手は、ダメな手だ。

 

『ヨル、その手はいけない』

『っ!』

『よしよし、その手が”悪い手”になる前に、俺がよしよしをしてやろう』

 

 俺が夜の体を越えて、ヨルの右手を撫でてやった。今晩は、俺はたくさんの“よしよし”をヨルから貰ったから、まずは少しだけお返しだ。

 

『ひらけ、ひらけ』

『悪い』

『ヨルは何も悪い事はしていない。優しい、素敵な手だからな。よしよし。ひらいた、ひらいた』

『……』

 

 ヨルの手がグウから、パアになった。パアはよしよしの手だから素敵。グウは殴る手だから、素敵じゃない。

 

 

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