41:金持ち父さん、貧乏父さん(41)

 

『母さんは、末の弟を産んだ時に、体力も限界だったんだろうな。産んですぐに死んだ。7人も子供を産んだんだ。確かに、もう、あれ以上“役割”を果たすのは無理だったに違いない』

 

 母さんが死ぬ時、その最期に、俺にだけ、母さんはそっと言った。

 

 

——-ごめんね。生きて。

 

 

『それは、母さんが初めて俺にだけ口にした言葉だったけど、でも、俺には分かっていた。母さんは俺が森から傷だらけで帰って来ると、いつもホッとした顔をしていたからな。俺に“生きていて欲しい”と思っている事は分かっていた』

『でも、お前を助けはしなかった』

 

 ヨルの感情の抑え込まれた声の中に、明らかな怒りと苦しみが混じっていた。抑えきれない程、ヨルは怒ってくれている。俺の為に、俺を想って。

 それって、俺にとっては凄く、凄く素敵で、嬉しい事だ。

 

『そう言うな。母さんは……役割があったんだよ。凄く凄く重要な役割。自分の血を、絶やさない役割』

『……そんなの』

『なぁ、ヨル。分かるか?親父の“血”じゃない。母さんは、自分の血脈を、どうしても残さなければいけなかったんだ』

 

 そう、母さんは子を成し、跡継ぎを育て上げる役割に支配された女性だった。それは、別に親父でなくても良い。母さんにとって重要だったのは、自分の血。それは、すなわち、

 

『母さんが、この村の村長家の家系の血を引いてるんだ』

『じゃあ、あの男は……』

『母さんの元に婿入りした男だ』

 

 それまでの観察の全てを総動員し、考えに考えぬいて、俺に答えをくれたのは、親でも周囲の大人でもなく、やっぱり、それは“野生”だった。10歳の頃、俺は衝撃的な光景を、森で目撃してしまったのである。

 

『ある日、森で俺は一匹の体の大きな立派なオスの狼が、小さな子供の狼を皆殺しにするところを見た。狼に見つかったら、俺まで殺されてしまう。だから、本当はすぐにでもその場を離れるべきだったのだろうが、俺はそのオスの狼の異様な光景に、目が離せなかった』

 

 その大人の狼の目が、明らかに親父と同じ目をしていたからだ。そこからだ、俺が危険を顧みず、狼の群れを観察するようになったのは。

 

『俺は狼に見つかって食い殺されるよりも、“分からない”事の方が、ずっとずっと怖かった。親父の向けてくる、訳の分からない殺意を恐れ続けるくらいなら、狼に見つかって食い殺される方が、ずっとマシだと思ったんだ』

『……お前は、そういう奴だな』

『ふふ。そうだ。俺はそういう奴だ』

 

 ヨルが、また嬉しい事を言う。俺が“こんな奴”って知ってるのは、きっとヨルだけだ。ヨルだけというのが、また嬉しい。

 

『そして、俺はやっと分かった』

『子殺しの、理由か』

『うん、ずっとずっと狼の群れを追いかけて、母さんが死ぬ直前、やっと、俺は親父の全てを理解できた気がした。狼が子殺しをする時、それは』

 

——–群れの筆頭が変わる時だ。

 

 それまでの群れの筆頭だったオスが年老いた時、若いオスが新たに隆盛する。そこから、新しい群れの筆頭が誕生した瞬間、それまでの筆頭だったオスの子は、新しい筆頭のオスに皆殺しにされる。

 自身の血を引いた子をメスに孕ませる為に。子育て中のメスは発情しないから、まずは邪魔な“他の雄”の子を殺すのだ。

 

『ふわふわで、可愛い子らだった。小さくて、可愛くて。愛おしかったのだけれどなぁ』

 

 それでも、狼は子狼を殺す。自身の血を残す為。そう遠くない未来、自身の立場を奪う驚異の芽を摘み取るように。

 

 それを知った時、俺は、俺と弟達との違いを観察してきた事も、大いに役に立った。弟達は軒並み体が弱く、病気がちだった。それに引き換え、俺には一切そういった事はなかったから。あぁ、やっぱりか、と思った。

 

『だから、ヨル。これで、やっとヨルの最初の質問にきちんと答えられたな』

『あぁ』

『俺は、あの老いぼれの息子じゃない。俺は、あの老いぼれの“兄”の子だ』

 

 母に婿入りした最初の男。人望もあり、誰からも好かれていたらしいその男。

 母の父であった、当時の村長に望まれて、迎え入れられたその男。俺の本当の父親。見た事も、会った事もないその男は、凄く、凄く、不運な事に、ある日、崖から落ちて死んだ。

 

———殺しても、殺しても!お前は俺の邪魔ばかりするっ!消えろ!目障りだっ!お前のせいだ!お前が悪い!その目が悪いっ!アイツの目だ!憎らしい!

———っ兄さんが悪いんだ!昔から!昔からっ!

———見るな!見るな見るな!今度はその目を潰してやろうか!?

 

 

 母が死んだ日。俺はそう言って、親父に、あの男に、一晩中殴られ続けた。けれど、もう俺は何も怖くなかった。理由が分かれば、もう怖くない。俺の目の前に居るのは、俺を見ながら、自身の兄の幻影に怯える、ただの”弱虫”だったからだ。

 

 だから、黙って、黙って耐えた。

 

 そして、俺はやっとここまで、生き延びたんだ。

 

 

      〇

 

 

『なぁ、ヨル。血って何だろうな。自分の血の繋がりのある者しか、跡を継がせたくないって……それって意味があるのか?血なんて、別に見えやしないのに』

 

 一晩中とは言ったが、口にしてみると大した話では全然なかった。物凄く単純で、野生の世界でもよくある話。自分の子以外の、血を引く人間に、権力の跡を継がせたくないという、本能的な欲望。

 

 あぁ、下らない下らない。

 実に下らない話をしてしまった。

 

『俺も……その問いの答えは分からない。ただ、俺の父も、似たような事をよく口にする』

『ヨルのお父さんもか!』

 

 そうか、そうか。どこの世界もそう言うものなのか。やっぱり、あの男が特別に醜悪な訳でも、頭がおかしい訳でもないようだ。

 あの老いぼれは、一介の、頭の固い愚かな年寄りだ。

 

『そうか……やっぱり、一度権力や力を手にした人間は……いや、老いぼれは、ソレを奪われるのを恐れるんだろうな。恐れるから、”血”なんていう、見えない檻で自分の周りを囲って守ろうとする。俺にはちっとも分からん』

『……お前の言う事は、いちいち正しい。正しいからこそ、他人はお前を遠ざけるのかもしれないな』

 

 俺の言葉に、ヨルは何故か俺の頭を撫でてきた。この”よしよし”は、きっとアレだ。よくできました、のよしよしだ。俺には分かる。

 どうやら、俺は”良く出来た”らしい。

 

『スルー』

『ん?なんだ、ヨル』

 

 俺はヨルのよしよしに目を閉じて、その気持ち良さに感じ入っていると、突然、ヨルの香りが俺の鼻の奥にふわりと香った。

 

『スルー、スルー、スルー』

『……どうしたんだ?』

 

 俺は、ヨルに正面から抱きしめられていた。

 俺の背に回されたヨルの手が、そのまま俺の頭を抱え込むように、頭の後ろへと添えられる。抱きしめられながらも、俺への”よしよし”は止まらない。

 やっぱり、ヨルのよしよしは物凄く気持ちが良い。俺の視界は、今やヨルの白いシャツしか映っていない。ヨルの匂いが、たくさんする。ヨルの声が、何度も何度も俺の名を呼ぶ。

 それら全部が、俺は大好きだ。

 

『スルー、するー』

『ふふ。どうした?ヨル』

 

 そう言えば、最近はヨルを抱き締めてやっていなかったな、とヨルに抱きしめられながら思う。出会った頃は、よく俺が抱きしめてやっていたものだったが、最近はしていなかった。

 それもそうだろう。

 

 もう、ヨルは俺が抱きしめずとも、弱虫じゃなくなった。周囲の目を気にして、頼りない自分を隠したりしない。もう、ヨルに俺の”抱擁”は必要なかったのだから。

 なのに、今、こうしてそのヨルから、俺が抱擁を受け取っている。

 

『良かった』

『なにが?』

『スルーが此処まで生き延びて、本当に良かった。俺が此処に来るまで、生きていてくれて、本当に』

 

——-良かった。

 

『っ!』

 

 そう、心底ホッとしたような声で口にされた言葉に、その瞬間、俺はこれまでの痛かった事も、苦しかった事も、全部が報われたような気がした。

 抱擁は、相手の存在を肯定し、生きる力を与えてくれる。

 

 俺はその夜。

 本当の意味で、思う事が出来た。

 

 

 生きてて、良かった、と。