『母さんは、末の弟を産んだ時に、体力も限界だったんだろうな。産んですぐに死んだ。7人も子供を産んだんだ。確かに、もう、あれ以上“役割”を果たすのは無理だったに違いない』
母さんが死ぬ時、その最期に、俺にだけ、母さんはそっと言った。
——-ごめんね。生きて。
『それは、母さんが初めて俺にだけ口にした言葉だったけど、でも、俺には分かっていた。母さんは俺が森から傷だらけで帰って来ると、いつもホッとした顔をしていたからな。俺に“生きていて欲しい”と思っている事は分かっていた』
『でも、お前を助けはしなかった』
ヨルの感情の抑え込まれた声の中に、明らかな怒りと苦しみが混じっていた。抑えきれない程、ヨルは怒ってくれている。俺の為に、俺を想って。
それって、俺にとっては凄く、凄く素敵で、嬉しい事だ。
『そう言うな。母さんは……役割があったんだよ。凄く凄く重要な役割。自分の血を、絶やさない役割』
『……そんなの』
『なぁ、ヨル。分かるか?親父の“血”じゃない。母さんは、自分の血脈を、どうしても残さなければいけなかったんだ』
そう、母さんは子を成し、跡継ぎを育て上げる役割に支配された女性だった。それは、別に親父でなくても良い。母さんにとって重要だったのは、自分の血。それは、すなわち、
『母さんが、この村の村長家の家系の血を引いてるんだ』
『じゃあ、あの男は……』
『母さんの元に婿入りした男だ』
それまでの観察の全てを総動員し、考えに考えぬいて、俺に答えをくれたのは、親でも周囲の大人でもなく、やっぱり、それは“野生”だった。10歳の頃、俺は衝撃的な光景を、森で目撃してしまったのである。
『ある日、森で俺は一匹の体の大きな立派なオスの狼が、小さな子供の狼を皆殺しにするところを見た。狼に見つかったら、俺まで殺されてしまう。だから、本当はすぐにでもその場を離れるべきだったのだろうが、俺はそのオスの狼の異様な光景に、目が離せなかった』
その大人の狼の目が、明らかに親父と同じ目をしていたからだ。そこからだ、俺が危険を顧みず、狼の群れを観察するようになったのは。
『俺は狼に見つかって食い殺されるよりも、“分からない”事の方が、ずっとずっと怖かった。親父の向けてくる、訳の分からない殺意を恐れ続けるくらいなら、狼に見つかって食い殺される方が、ずっとマシだと思ったんだ』
『……お前は、そういう奴だな』
『ふふ。そうだ。俺はそういう奴だ』
ヨルが、また嬉しい事を言う。俺が“こんな奴”って知ってるのは、きっとヨルだけだ。ヨルだけというのが、また嬉しい。
『そして、俺はやっと分かった』
『子殺しの、理由か』
『うん、ずっとずっと狼の群れを追いかけて、母さんが死ぬ直前、やっと、俺は親父の全てを理解できた気がした。狼が子殺しをする時、それは』
——–群れの筆頭が変わる時だ。
それまでの群れの筆頭だったオスが年老いた時、若いオスが新たに隆盛する。そこから、新しい群れの筆頭が誕生した瞬間、それまでの筆頭だったオスの子は、新しい筆頭のオスに皆殺しにされる。
自身の血を引いた子をメスに孕ませる為に。子育て中のメスは発情しないから、まずは邪魔な“他の雄”の子を殺すのだ。
『ふわふわで、可愛い子らだった。小さくて、可愛くて。愛おしかったのだけれどなぁ』
それでも、狼は子狼を殺す。自身の血を残す為。そう遠くない未来、自身の立場を奪う驚異の芽を摘み取るように。
それを知った時、俺は、俺と弟達との違いを観察してきた事も、大いに役に立った。弟達は軒並み体が弱く、病気がちだった。それに引き換え、俺には一切そういった事はなかったから。あぁ、やっぱりか、と思った。
『だから、ヨル。これで、やっとヨルの最初の質問にきちんと答えられたな』
『あぁ』
『俺は、あの老いぼれの息子じゃない。俺は、あの老いぼれの“兄”の子だ』
母に婿入りした最初の男。人望もあり、誰からも好かれていたらしいその男。
母の父であった、当時の村長に望まれて、迎え入れられたその男。俺の本当の父親。見た事も、会った事もないその男は、凄く、凄く、不運な事に、ある日、崖から落ちて死んだ。
———殺しても、殺しても!お前は俺の邪魔ばかりするっ!消えろ!目障りだっ!お前のせいだ!お前が悪い!その目が悪いっ!アイツの目だ!憎らしい!
———っ兄さんが悪いんだ!昔から!昔からっ!
———見るな!見るな見るな!今度はその目を潰してやろうか!?
母が死んだ日。俺はそう言って、親父に、あの男に、一晩中殴られ続けた。けれど、もう俺は何も怖くなかった。理由が分かれば、もう怖くない。俺の目の前に居るのは、俺を見ながら、自身の兄の幻影に怯える、ただの”弱虫”だったからだ。
だから、黙って、黙って耐えた。
そして、俺はやっとここまで、生き延びたんだ。
〇
『なぁ、ヨル。血って何だろうな。自分の血の繋がりのある者しか、跡を継がせたくないって……それって意味があるのか?血なんて、別に見えやしないのに』
一晩中とは言ったが、口にしてみると大した話では全然なかった。物凄く単純で、野生の世界でもよくある話。自分の子以外の、血を引く人間に、権力の跡を継がせたくないという、本能的な欲望。
あぁ、下らない下らない。
実に下らない話をしてしまった。
『俺も……その問いの答えは分からない。ただ、俺の父も、似たような事をよく口にする』
『ヨルのお父さんもか!』
そうか、そうか。どこの世界もそう言うものなのか。やっぱり、あの男が特別に醜悪な訳でも、頭がおかしい訳でもないようだ。
あの老いぼれは、一介の、頭の固い愚かな年寄りだ。
『そうか……やっぱり、一度権力や力を手にした人間は……いや、老いぼれは、ソレを奪われるのを恐れるんだろうな。恐れるから、”血”なんていう、見えない檻で自分の周りを囲って守ろうとする。俺にはちっとも分からん』
『……お前の言う事は、いちいち正しい。正しいからこそ、他人はお前を遠ざけるのかもしれないな』
俺の言葉に、ヨルは何故か俺の頭を撫でてきた。この”よしよし”は、きっとアレだ。よくできました、のよしよしだ。俺には分かる。
どうやら、俺は”良く出来た”らしい。
『スルー』
『ん?なんだ、ヨル』
俺はヨルのよしよしに目を閉じて、その気持ち良さに感じ入っていると、突然、ヨルの香りが俺の鼻の奥にふわりと香った。
『スルー、スルー、スルー』
『……どうしたんだ?』
俺は、ヨルに正面から抱きしめられていた。
俺の背に回されたヨルの手が、そのまま俺の頭を抱え込むように、頭の後ろへと添えられる。抱きしめられながらも、俺への”よしよし”は止まらない。
やっぱり、ヨルのよしよしは物凄く気持ちが良い。俺の視界は、今やヨルの白いシャツしか映っていない。ヨルの匂いが、たくさんする。ヨルの声が、何度も何度も俺の名を呼ぶ。
それら全部が、俺は大好きだ。
『スルー、するー』
『ふふ。どうした?ヨル』
そう言えば、最近はヨルを抱き締めてやっていなかったな、とヨルに抱きしめられながら思う。出会った頃は、よく俺が抱きしめてやっていたものだったが、最近はしていなかった。
それもそうだろう。
もう、ヨルは俺が抱きしめずとも、弱虫じゃなくなった。周囲の目を気にして、頼りない自分を隠したりしない。もう、ヨルに俺の”抱擁”は必要なかったのだから。
なのに、今、こうしてそのヨルから、俺が抱擁を受け取っている。
『良かった』
『なにが?』
『スルーが此処まで生き延びて、本当に良かった。俺が此処に来るまで、生きていてくれて、本当に』
——-良かった。
『っ!』
そう、心底ホッとしたような声で口にされた言葉に、その瞬間、俺はこれまでの痛かった事も、苦しかった事も、全部が報われたような気がした。
抱擁は、相手の存在を肯定し、生きる力を与えてくれる。
俺はその夜。
本当の意味で、思う事が出来た。
生きてて、良かった、と。