43:金持ち父さん、貧乏父さん(43)

『……』

 

 ヨル。

 俺はヨルをジッと見つめ、ヨルの名を呼ぶ為に、ヒュッと息を吸い込んだ。けれど、その息は、ただ吸い込んだだけで、音として現れないヨルの名。

あぁ。いけない。いけない。今、ヨルの名を呼ぶと、格好悪く、声が震えそうだ。嬉しくて泣きそうなんて、そんなのバレたら、まるでいつもの“スルー”らしくないじゃないか。

 

 すると、それまで紙の上に、踊るように文字を描き出していたヨルの視線が、何かを感じ取ったかのように、俺の方へと向けられた。唇を噤んで、ただヨルを見ていた俺の視線と、ヨルの視線が絡み合う。

 

『どうした、スルー』

『……なんでもない。ただ、ヨルを見てただけだ』

『そうか』

 

 そんなヨルからの短い返事に、俺はきっとヨルはすぐに文字を書くのに戻るのだろうと思った。けれど、その予想は外れ、ヨルは紙を挟んだ板と、文字を書く為の黒い棒を地面に置くと、ゆっくりとした動作で、俺の頭の上に手を置いた。

 

 

『よしよし、スルー』

『……』

 

 頭を、撫でられている。ヨルの優しい手つきが、俺の髪の毛をすくいながら、耳の後ろ、首の後ろまで、流れるように撫でて行く。

 あぁ、なんて気持ちが良いんだろう。

 

『こうして、俺に撫でて欲しかったんだろう。スルー?』

『……』

 

 ちがう。よしよしして、なんて思ってなかった。

 けれど、どうだろう。実際ヨルに撫でられると、ずっと俺がヨルの名を呼んでいたのは、もしかしたら“よしよし”をして欲しかったのかもしれない、と思えて来た。

 

『なんで分かったんだ?ヨル』

『分かるさ。スルー、お前の事なら、俺は何だって分かる』

『ふふ。そっか。そっか』

 

 そうか。ヨルは俺の事なら“分かって”くれるのか。そりゃあいい。素敵も素敵、月を越えるくらい素敵じゃないか!

 

『なぁ、スルー。やはり、あの山肌は、もう長い事、崩れていないようだ』

『やっぱりか』

 

 ヨルの手つきが、滑って滑って色々な所を撫でてくれる。今は、まるで犬でも撫でるかのように、俺の顎の下を、指でこするように撫でている。少し、くすぐったい。

 

『故に、あの山肌は今年の夏と来年の夏の2度を通し、試験的に疾風を受けさせ、様子を見る事にする。これが、あの山肌の安息角を試す、最終実験となるだろう』

『本当の疾風で“試し遊び”をするんだな!あぁっ、こんなに疾風に早く来て欲しいと思ったのは、生まれて初めてだ!』

 

 あぁ、本当に本当にワクワクする。きっと今年の疾風は弱いから、きっと土砂崩れは起きない。けれど、来年の疾風はどうなるか分からない。数は多いか、少ないか、弱いか、強いか。

 それが分かるのは、またぐるりと季節がめぐった、今年の冬の終わり頃だろう。

 

 俺の予想では“崩れない!”であるが、これは試してみなければ、答えは分からない。出来れば、山肌の実験の為に一発大きいのが、ドーンと来ればいいと思う。

 

 まぁ、そんなものが来たら、土砂崩れ以前に、俺の畑もドーンとどこかへ飛んで行ってしまうだろうが。

 

『となると、スルー?まず俺達がやるべき事は……何だと思う?』

『うーん、そうだなぁ』

 

 その、ヨルからの問いに、俺は少しだけ目を閉じ思考した。今や、ヨルの手は顎の下から、俺の背中へと移動している。気持ち良い。

 

『山肌ではなく、街道の補正……かな?』

『お前なら、そう答えてくれるだろうと思ったよ。スルー』

『ふふ』

 

 ヨルは以前、俺が自分で“気付きたい”と言っていたのを忘れずに居てくれているのだろう。敢えて答えを口にせず、こうして、俺に答えさせてくれる。

 そして、その俺の口にした答えが、ヨルの考えたモノと同じだった場合、良く出来た、とまるで父親が子供にしてやるように、俺の頭をわしゃわしゃと撫でてくれるのだ。

 

 これは、全然気持ち良くはないけれど、されるととても嬉しいヤツだ!だって、俺にはこんな事をしてくれる人は、今まで一人だって居なかったのだから!

 

『ヨル。あそこは綺麗になったら、色んな人やモノが通れるようになるんだよな?』

『あぁ、そうなればいいと願っている』

『なら、もう、少し道幅を広くして、沢山のモノが馬車で通ってもガタつかないように、しっかりと、別の土で、道を補正しないといけないんじゃないのか』

『あぁ、その通りだ。スルー』

 

 わしゃわしゃ。

 ヨルの手が俺の頭をめちゃくちゃに撫でてくれる。嬉しい、嬉しい!ヨルが撫でてくれる、この“よくやった!”のよしよしは、どんどん俺の頭の中を早く、早く動かしてくれる。

 あぁ、思考が止まらない!俺の頭の中は、もう狼よりも早く駆け抜けて行く!

 

『じゃあ!じゃあ!道幅を広くとる時、一緒に山肌から、街道の距離を取っておこう!そうすれば、もし万が一、山肌が崩れ落ちてきても、街道へ土が雪崩れ込まなければ、復旧も早く出来るし!』

『あぁ、それも必要だな。万が一の想定も、必ず要る』

 

 俺が何を言っても、ヨルは頷いてくれる。素敵!素敵!最高!

 

『でも、きっと俺とヨルの予想した通り、あの山肌はきっと崩れない。それを証明できたら、ヨル!そしたら、きっと“荒地の街道”なんて名前は消えて、“あんしんのみち”って呼ばれるようになるな?』

『…………』

 

 けれど、どうしてだろう。最後の俺の言葉に、ヨルは俺を撫でていた手をピタリと止め、それまで優しい微笑みを浮かべていたヨルの顔に、一気に眉間の皺が刻まれた。

 

『ヨル?ほら、よしよしはないのか?俺は素晴らしいだろう?』

『……スルー、お前は本当に、俺の“ヨル”と言い、名付けの感覚が変だな』

『む?』

 

 ヨルの言葉に、俺が何の事やらと首を傾げていると、ヨルは苦笑しながら、先程地面の上に置いた紙と板を手に取った。そして、またサラサラと、その紙に何かを書き始める。

 

『っふ。まぁ、いいだろう。じゃあ、この街道復興計画の名は……こうか』

『ヨル。ヨル?なんて、なんて書いたんだ?』

 

 ひょこりと体を起こし、俺がヨルの書いた紙の方へと目を向けると、そこにはやっぱり何を書いたのか分からない、なんだか面白い形の文字があった。

 

『そうだな、これは』

———-安心の道計画。発案者、スルー。

 

『おお!俺の名前はこんな形をしているのか!賢そうな形じゃないか!まるで、頭の良い人みたいだ!』

『いや、そっちの字はお前の名ではない。こっち……まぁ、いいか』

 

 どうやら、俺とヨルは噛み合っていないらしい。けれど、俺は今日も今日とて、楽しいヨルとの時間を過ごせて大満足だ。俺は夜もヨルも大好きなのである。

 

『ずっと、夜ならいいのになぁ』

『俺は、別に昼間でも構わないが?』

『……ぐ』

 

 俺の言葉に、ヨルが意地悪そうな顔で、そんな事を言ってくる。そう、俺は最近、昼間は非常に困っているのだ。困って、困って、困り果てている。

 

『スルー?明日からは街道の補正に入ろうか』

 

 そう言って笑ったヨルの顔に、俺は明日の昼間を思い、心の中の物凄い速さで走っていた俺が、ピタリと足を止めるのを感じた。

 

『あぁ、もう!わかったよ!』

 

 俺は最早、ヤケクソな気持ちで、ヨルの背負う美しい夜空に向かって、大声で叫んだ。