その夜、ヨルはとても意地悪だった。
『ヨルー!』
『……』
いつものヨルとの待ち合わせの大岩へ、俺はその日も、家族が寝静まった家を飛び出して駆け出した。向かって、いつものように岩の上へと駆け上る。
けれど、俺が大声でヨルの名を呼んでも、ヨルは一切俺の方を見ようとしない。
『ヨル?』
『…………』
『聞こえていないのか?寝てるのか?』
俺がわざとヨルの目の前に顔を持って行って尋ねるが、ヨルはチラと俺の方へと目を向け、スンとした表情を浮かべるのみだ。なんだ、まるでこれは、俺を見た時のオブじゃないか!
———おーい!オブ!
———はぁ。なんだ、スルーさんか。
『はぁ、なんだ。村人。なにか俺に用か?』
『なっ!』
む、村人!?まさか、それは俺の事じゃないだろうな!?いや、分かっている!俺の事だ!だって、ここには俺とヨルしか人間は居ないのだからっ!
『ヨル!なんだ、その“村人”って!俺はスルーだ!“村人”なんて言ったら、誰の事か分からんだろうが!この村人全員が振り向くぞ!』
『……ここには、村人。お前と俺しか居ないのだから、分かるだろう』
『ま、また言った!また言ったな!村人って言うな!ちゃんと、いつものようにスルーと呼べ!』
俺はヨルに“村人”と、誰だか分からぬ呼び名で呼ばれる事に、モヤモヤし過ぎて地団駄を踏んだ。
どうして!なんで今日のヨルはこんなにも意地悪なんだ!
『スルーって呼べ!スルーって呼べ!』
『……はぁっ』
『溜息をついたなっ!もう!もう!なんなんだ!今日のヨルは変だ!意地悪だ!おかしい!』
『はぁっ』
あぁっ!2回も溜息を吐いた!俺はモヤモヤが募り過ぎて、終いには悲しい気分になってきてしまい、地団駄を踏むのを止めた。
『…………』
『…………』
なぜだろう。どうして今日のヨルは俺の名前を呼んでくれないのか。昼間、汗をかくヨルに、暑かろうと川の水をかけてやったのが、いけなかったのだろうか。
いや、待てよ。水をかけたのは俺じゃなくて、オポジットじゃなかったか?
そうだ!あれはオポジットの仕業だ!そのせいで、ヨルは着ていた服ごとべちゃべちゃに水に濡れて、村の若い衆達から大笑いされたのだ。俺はちょっとしか笑っていない!
『…………』
『おい』
じゃあ、なんでだ。どうしてヨルは俺を“村人”なんて、誰を呼んでいるかわからない呼び名で呼ぶんだ。
あぁ、腹の下がモヤモヤする。昨日と今日のヨルで何か違いがあるか?
そう、何か分からない事が起こった時は、その変化が起こる前と、後で、その違いを見比べてみるといい。
『…………』
『おいっ!』
昨日と、今日のヨルの違い。変化。それは――。
———俺とスルーはなっ!
———俺がこの村に来た時からっ!
———お前とオブのように、仲が良いんだ!
ヨルが大声を上げた。皆の前で、俺と手を繋いだ。俺と仲が良いと言った。顔を真っ赤にしていた。一緒に並んで村を歩いた。ずっと、昔からそうだったみたいに。
でも、それはヨルがやった事だ。ヨルが怒る理由にはならないだろう。だとすると、やっぱり原因は俺か。
俺、俺、俺、俺。
ヨルが仲良しだと叫んでくれたヨルに対し、それなのに、俺は――。
——–どうした!貴族!
“なんだ。村人”
『っおい、スルー!』
『ヨル。もしかして、お前は俺がお前を“貴族”と呼ぶ事に、怒っているのか?』
そう、俺が一つの思い至った“予想”をヨルに試して尋ねてみると、もうヨルは俺を“村人”なんて呼ばなくなっていた。ちゃんと”スルー”と呼んでくれる。
あぁ、良かった。これから、ずっと俺の事を他の村人とまとめて呼ばれるのかと思ってヒヤヒヤした。俺は、ヨルからその他大勢扱いを受けるなんて、絶対に嫌だ!
『……あぁ、やっと分かったか』
『でも、だって。それは』
『分かっている。お前が“変わり者”と呼ばれているから、俺とこうして仲良くしているのがバレたら、俺まで“変わり者”扱いされると思っているのだろう』
『……』
そうだ。だって、俺が“変わり者”なせいで、ヨルまで“変わり者”扱いをされたら、ヨルのしたい事が上手くいかなくなるかもしれない。ヨルは、毎日こうして俺と遊んでくれるが、ヨルはこの地に遊びに来ている訳ではない事を、俺は知っている。
悔しいけれど、ヨルのしたい事は、俺一人だけでは助けてやれない。
『スルー。お前、俺を侮るのも大概にしろ』
『む?』
『お前は、普段、あんなにも隠れて俺の事を“観察”している癖に、何もわかっちゃいないようだな』
急にヨルの声が、まるで狼の唸り声のように低くなった。ヨルはどうやら、今のこの一瞬の合間にも、俺に対して怒ってしまったらしい。今日のヨルはちょっと怒りん坊すぎやしないか。
『なぁ、スルー。俺が此処に来たばかりならともかく、今の俺を見ろ』
『あぁ、見ている』
ヨルの言葉に、俺はヨルの顔をジッと見つめた。あぁ、今日のヨルも素敵だ。昼間のように汗をかいて、腕まくりをして、日の下に居るヨルも素敵だが。やっぱり、俺は夜の、この俺だけが知っているヨルの方が好きだ。
『良い匂いもする。おふろのにおいだ』
俺を見ろ!と、自身の胸に掌を当て、ズイと俺に近寄ってきていたヨルに、俺はクンクンンと鼻を鳴らした。これは知っている。一緒に入った、あの“おふろ”のあわあわの匂いだ。あと、ヨルの元々の匂い。
とても安心する匂いだ。
『っおい!?嗅ぐなっ!お前は犬か!?』
『いや、俺は一応、人間だが』
すると、ヨルはそれまで俺へと寄せていた体を、一気に大岩の端まで離した。さすがに、こないだのように、勢い余って落ちるなんて事はない。なんだ、なんだ。急に“まさつりょく”を強くして。一体どうしたと言うんだ。
『っくそ!昼間の俺は臭かったとでも言うのか!?』
『昼間のヨルも良い匂いだったぞ!』
『バカにするなっ!あんなに汗まみれで、良い匂いな訳があるかっ!』
『なんでだ?ヨルは汗をかいても良い匂いだった。他の村の奴らとは、全然違う。すごく、好きな匂いだ』
『~~~~っ!』
そう、不思議な事にヨルは確かに、昼間のあんな汗まみれの中でも一際良い匂いだった。俺は犬ではないが、鼻は利く方なので、よくわかる。もしかして、良い匂いのする花でも、その体に擦り付けているのかもしれない。
くんくん。
『うん、良い匂いだ』
そう、俺がヨルの顔をジッと見つめながら、改めてもう一度鼻を鳴らして匂いを嗅いでみると、ヨルの顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていった。まるで、昼間のヨルのようではないか。今日はランプはないので、ハッキリとは見えないが、それでも傍に居れば、よく分かる。
『ヨル、顔が真っ赤だ』
『ちがうっ!今の俺ではない!昼間の、普段の俺を見ろと言っているんだ!』
『普段の……』
『そうだっ!』
普段のヨル。俺はヨルに言われた通り、普段のヨルを思い出した。
昼間のヨルは、いつも村の若い衆の中心に居る。特に、オポジットなんかとは、並び立つ事が多い。皆で、色々な事を話し合い、難しい顔をしたり、けれど、たまに笑っていたりする。
『普段の、昼間のヨルは……楽しそうだ』
昼間は、ずっと遠くでヨルの事を見ていたから、俺はよく知ってる。ヨルは、息子のオブと“同じ”になったのだ。今や、子供達の中心に立つオブと。大人達の中心に立つヨル。
さすが、親子である。だからこそ、俺は思う。
『昼間のヨルは、物凄く遠いな』