50:金持ち父さん、貧乏父さん(50)

 

『あぁ、俺も変わり者だ。だから、スルー。お前が要るんだ。俺の削った山裾を踏み荒らして、踏み均せ。どんどん平らにしろ。ここからは……お前も必要だ』

『俺も?俺も要るか?近寄っても大丈夫か?』

 

 俺は岩の上で踊りながら、ヨルに尋ねた。

 もう、いいのか?俺が近寄っても、ヨルは“変わり者”なんて言われないか?

 ここまで思って、俺はハッとした。いや、既にヨルも大いに“変わり者”だったじゃないか!と。

 

『大丈夫だ。俺はもう自分の足場は作った。もう、誰にも冒される事はない。だから、スルー。もう気にするな。お前が踏み均して初めて、俺の望む場所になるんだ』

『そうかっ!俺は山を踏み荒らす役か!あはははっ!そりゃあいい!それは俺も得意そうだ!』

 

 そうかそうか!じゃあ、もういいか!昼間にヨルを遠くに見て、オポジットや他の連中と楽しそうにしているのを見て、腹の底に炎を燃やさなくってもいいのか!

 昼間にヨルと遊んでも、いいのかっ!

 

『スルー。俺には、お前だけだったんだ』

『なにがだ!』

 

 岩の上で踊り狂う俺の腕を、突然ヨルが掴んだ。掴まれ、踊りが止められる。あぁっ!一体なんなんだ!俺は今、とても踊りたくて仕方がないというのに!

 

『大きな山を前に、どこから手を付けるべきかと、思案し立ち尽くす俺の隣に、最初から居てくれた“人間”は。お前、だけだった』

『ヨル』

 

 ヨルの口から静かに語られる言葉に、俺は踊りたくて仕方がなかった心を、スッと沈めた。ヨルにとって“村人”は大きな山だった。切り拓くべき、大きな山。その中に居て、俺だけは“違った”のか。

 

『俺にとって村人は、山だ。けれど、スルー。お前は山なんかじゃなかった。お前は、俺にとって最初からこれまで、ずっと“スルー”だった。隣に立ち、共に戦ってくれたのは、お前だけだったんだ』

『っ!!』

『だから、スルー。俺を“貴族”などと呼ぶんじゃない。俺を、無理やり遠くへ追いやろうとするな。それでは、あまりにも寂しいじゃないか』

 

 俺の掴まれた腕に、ヨルの力と熱さが籠る。あぁ、俺はヨルにとんでもない事をしていたんだな。“貴族”なんて呼び方をして、ヨルを、どこか遠くへ投げやり、一人にしようとした。

あぁ、俺はなんて酷いヤツなのだろう。

 

『スルー。俺の名を呼べ。貴族なんて呼ぶな。俺を呼べ』

 

 ヨルの、俺の腕を引く力が、更に強くなる。その力に、俺はもうヨルに逆らう事なく引き寄せられた。俺はヨルの“こうしんりょく”なのだ。そもそも、逆らう方がおかしい。

 鼻先が触れ合う程に、目の前にあるヨルの顔を見つめながら、俺は観念した。もう、昼間にもヨルを“一人”になどしない。

 

 俺はヨルの隣に居たいのだ。

 

『ザン』

 

 そう、俺が観念して、ヨルの本当の名を口にした時だった。ヨルの表情が、一気に固まった。固まり、そして、一気に呼吸が荒くなる。

 

『ぁ、あ……お、お前。な、んで。しっ、知っていた、のか?』

『え?』

 

 先程まで、とても余裕そうな顔をしていたヨルの顔が、一気に崩れ去った。その顔は、またしても、昼間のような、あの汗にまみれ、焦り、顔を赤く染め上げる、あのヨルの表情になってしまっている。

 

『え、名前を呼べって、お前が言ったんじゃないか。ザン』

——–ザン。

 

 慣れないので、繰り返し呼んでみる。

 そう。“ヨル”なんて名前は、俺の付けた適当な呼び名だ。そんな事、この男自身も百も承知だろうに。今更どうしてこんなに驚くのだろう。

 

『もちろん、知っているさ。夕まぐれやオポジットが、そう呼んでいたからな』

『っ、あ。俺は、ザンか……そう、か』

 

 ヨルが自分の口元に手を当てて、顔を赤くしたまま俯いた。まさか、この男は自分の本当の“名前”を忘れていたのか!自分を“ヨル”だと、思い込んでいたのか!?

 

『……っくそ。まさか、こんな』

『ザン。まさか。お前は自分の名前を、忘れていたのか?』

『っそんな訳ないだろう!?お前がそっちの名を呼ぶと思わなかっただけだ!』

 

 俺の握られた腕が、ギリギリと音を立てて握り締められる。い、痛い。物凄く痛い。

 

『ザ』

『ザンは止めろ!?せめて……夜だけは、二人の時だけは……“ヨル”でいさせてくれ』

 

 そう、俯きながら絞り出すように言われたザン、否、ヨルの言葉に、俺は何故だか、非常に心の真ん中にある、本当の“スルー”の部分が、キュウと締め付けられたような気がした。ヨルにとって、“ザン”は、とても大変な気持ちになる名前なのかもしれない。

 

『ヨル?』

『俺は……あまり“ザン”という名が、好きではない。お前に、ザンと呼ばれるには……もう少し、俺が自分に自信を持てるまで……待ってくれ』

 

 ヨルが俺から目を逸らし、自身の胸に手を当てながらそんな事を言う。そうか、ヨルもヨルで、この夜の時間に安らぎを覚えていたのか。まさに、この俺のように。

 ヨルも俺と同じだったのだ。昼間の、貴族としての役割を担う”ザン”から、夜は”ヨル”になる事で、この男は心のままに振る舞えたのかもしれない。

 

『分かった。ヨル。俺は夜、二人の時には、これからもお前を”ヨル”と呼ぼう』

『そう、してくれ。”ザン”は……昼間だけで十分だ』

 

 眉間に深い皺を刻みながら口にされる言葉に、俺は心底ヨルに同情した。ザンという名は、そんなにお前に無理を強いていたのか、と。

 

『ヨル、ヨル、ヨル、ヨル』

『…………』

 

 俺は久々にヨルに向かって両手を広げると、そのままゆっくりヨルを抱き締めた。久々の俺からの抱擁に、ヨルは一瞬ビクリと肩を揺らしたが、すぐに肩の力を抜いた。

 

『上手になったじゃないか。ヨル』

『……あぁ、そうだな』

 

 肩の力を抜くどころか、俺の背には、いつの間にかヨルの腕が回されている。あぁ、こんな事まで出来るようになったんだな。ヨル。

 最初は俺が抱擁をする度に、体を岩のように固くしていたというのに。今は、とても柔らかい。

 

『ヨル』

『なんだ、スルー』

 

 俺はヨルの顔と首の間に、スリと鼻先をこすり付ける。やはり、良い匂いだ。まるで、春の花の蜜のような、甘い香りがする。

 

『この夜に居る”ヨル”は、俺だけのモノだな』

 

 昼間の”ザン”は皆にくれてやる。けれど、この夜に居る”ヨル”は俺だけのモノ。俺だけのヨル。

 

『あぁ、是非。そうしてくれ』

 

 そう、満足そうに呟くヨルの声が、俺の耳元で甘く痺れた。

 

 

 こうして、夜のヨルは、俺だけのモノと相成ったのである。