52:金持ち父さん、貧乏父さん(52)

『洗濯モノを寄越せ。ヴァーサス。俺が代わりにやってやる』

『……っ!っお前は!』

 

 だから俺は思うのだ。もし、ヴァーサスに丈夫な体があったとしても、ヴァーサスは村長にはなるべきではない。いくら賢くとも“器”がなければ意味がないのだ。

 

『っげほ!げほっ』

『なぁ。ヴァーサス。もし、親父が死んだら、うちに来ないか。お前は、一人になるべきじゃない』

『……っく。死ぬ死ぬ言うな!俺達の父さんだぞ!?』

『俺達?』

 

 夏の熱さのせいか、怒りのせいか。それとも、別の何かがあるのか。ヴァーサスは咳き込みながら、顔を真っ赤にして、俺を睨んできた。頼もしかった父親が弱り、死を目前にしているのが、そんなに辛いのか。

 生き物が年を取り、そして死ぬ事なんて、当たり前の事だろうに。

 

『あれは、お前の父親だ。俺の父親なんかじゃない』

『っ!お前……!』

『お前はまだ、小さかったから分からんかもしれんが。俺は、あの老いぼれを自分の“父親”だと思った事など、一度もなかったぞ』

 

 俺は、ヴァーサスの言う 何でも持っている俺 が、いかに何も持っていなかったか、この場で叫んでやりたかった。俺は、皆が最初から、当たり前のように持っているモノがなかったんだぞ、と。

 

『ただ。お前は違う。なぁ、ヴァーサス』

 

 親の愛を。

 お前達兄弟が、その身に一身に受けて来たものが、俺には欠片もなかったのだと、大声で叫びたかった。けれど、そんな事をしたって、意味がない。もう、まったくもって無意味なのだ。

 

『お前は俺の弟だ。出来れば、お前はあの親父から受け継いだ、要らぬ足枷を、アイツが死んだら盛大に脱ぎ捨てて欲しい。あの老いぼれは、お前にとって欠片の利も、もたらしはしない。アイツは、お前から、奪う事しかせんぞ』

 

 言いながら、まさにその通りだと思った。だから、あの老いぼれも、弱っているなら、この夏の熱さで、早くくたばってしまえと思う。弱いモノが自然淘汰される事は、生き物の世界ではよくある事だ。

 この子の為にも、早く、早く。

 

『……意味が分からない事ばかり言うな!この変わり者がっ!愚痴がっ!痴人がっ!お前がそんなんだから、父さんは俺に頼るしかなかったんだ!兄さんたちが死んで、お前がそんなんだから!父さんはっ!父さんは!!っげほっ!っはぁっはぁ!』

『はぁ』

 

 本当に、この弟は賢いのに、この一点においてのみ、驚くほど愚かだ。どうしようもない事を、全て他者のせいにする。

 あぁ、それは愚かの極みだ。他者に責任をなすりつけても、自身の身に降りかかっている現実が、変わる訳でもないのに。この思考が、何も産みやしない事など分かっていて、囚われている。

 愚かで、そして可哀想な弟だ。

 しかし、ヴァーサスは、まだ18だ。早く、早くアイツが死にさえすれば、ヴァーサスも。

 

『ほら、洗濯物を寄越せ』

『いいっ!誰が、お前の手など借りるかっ!お前がさっさとくたばれ!』

 

 ヴァーサスは俺の伸ばした手を、勢いよく叩き落とすと、肩で息をしながら俺に背を向け去って行った。そうやって去っていく弟の背を、俺は黙って見送る。可哀想だ。本当にヴァーサスは可哀想。

 

『はぁっ』

 

 俺は深い溜息を吐くと、足元に散らばっていた小石を、一つ、また一つと拾った。拾い上げながら、周囲からの密やかな声が、またしても俺の耳をつくのを聞いた。ハッキリと何を言っているのかは聞こえない。

俺への陰口と違って、余り開けっ広げに口にしないのは、ヴァーサスや親父が関わっているからだ。

 

『ヴァーサスとスルーか』

『どうなるんだろうな』

 

 老いぼれ達は、どうしてこう、他人の家のアレコレに興味を示すのだ。

 暇だからか?もうすぐ死ぬからか?未来などどうでも良いからか?だから、今後の村長の座がどうなるか、面白がって見ていられるのか?

 

『まったく……』

 

 体の弱いヴァーサスか。頭のおかしい俺か。

 どちらが次の村長になるにせよ、アイツら老いぼれ達にとっては、最早どうでも良い事なのだろう。変化を拒絶する彼らには、俺達二人以外の選択肢など、見えていない。

 

 血脈や。風習。習わしと言った、伝統と名の付く中身のないモノに拘る奴らの曇った目には、オポジットやヨルのような、本物の器を兼ね備えた者の存在は、まるきり見えていないのである。

 

『歌うか?歌うしかないか?』

 

 そんな、うるさい老いぼれ達の声を聞きたくなくて、俺は頭の中に音楽を奏で始めた。歌を歌えば周囲の声は閉ざされる。歌は、俺の大切な盾だ。世界と、俺を完全に閉ざしてくれる。俺を辛い現実から守ってくれる。

 

 けれど、その盾は、この時ばかりは必要なくなった。

 

『あーっ!お父さーん!お父さーん!』

 

 俺を『お父さん』と呼ぶ、元気な声が俺の耳にスルリと入り込んで来た。その瞬間、俺と世界を分かとうとしていた頭の中の歌がピタリと止む。俺は世界に引き戻されたのだ。