(外伝94):金持ち父さん、貧乏父さん(56)

        〇

 

 

 村の東側。森を抜けた先には、切り立った崖がある。

 森の木々が立ち並んでいた場所から急に現れるその崖は、それまでの、多くの動植物を抱えていた森とは、まるで別世界だ。

 その崖から先に広がる世界は“無”だ。

 

 まるで“生者の世界”と“死者の世界”。そんな真逆の世界を分かつのが、その崖である。

 

 森の先の少し出っ張った場所から崖下を覗き込んで見ても、崖の底を窺い知る事は出来ない。どうやら、谷底には常に霧でも出ているのか、うすぼんやりとした暗闇が見えるだけだ。

 ただ、耳を澄ませば、微かに水の流れる音が聞こえる。だから、きっと崖の底には川が流れているのだろうという事は分かるのだが、その川を実際に見た者は居ない。

 

 そりゃあそうだ。

 その川を目にする時というのは、この崖から真っ逆さまに落ちたという事だ。そんな事になれば、人はもう、その場所で生者としてこの世に存在し続ける事は出来ない。落ちたら最後。どんなに足掻こうと、もがこうと、どうしようもない。

 

 だから、村の誰もがその崖の事を「死の崖」と呼び、そこから聞こえる川のせせらぎを「死の歌」と呼んでいた。そう呼ぶ事で、誰も崖には近づかないようにと、言い含めての事であったが、子供達にとっては、そんなものは関係なかった。

 

 “荒地の街道”と違って、“死の崖”は、子供達の遊び場にしている森の先にある。そうなれば、いくら大人が子供に言い聞かせても、子供は言う事など聞きはしない。だからこそ、数年に一度、死の歌に誘われた子供が、誰も見た事のない崖底へと吸い込まれていく。

 

———–イン、ニア。頼むから、崖にだけは近寄るなよ?

 

 例に漏れず、俺もインやニアが幼い頃から、その事は何度も何度も伝えてきた。こういう事を口にすると、まるで俺もいっぱしの“大人”のようではないかと、なんだか変な気分になるものだ。

 

———–分かったか?返事は?

 

 言っても聞かないのが子供という生き物である。なんて、思いつつ言わずにおれない。それが、大人であり、親というモノなのだろう。

 

 幼い頃、俺は何に対しても『なんで?』と口にする子供だった。大人達が『近寄るな』と呼ぶ場所の全てに『なんで?』と疑問を呈し、荒地の街道と同様、自分の意思でその場所へと向かい、自分自身で危険の有無を判断していったのだ。

 

 そうしなければ、俺の腹の中のモヤモヤが納まらなかったのである。

 

 けれど“死の崖”に関してはそうではなかった。俺は、あの場所については、物心ついた頃には危険と恐怖の認識で、全てが埋め尽くされていたのである。

 

———お前がっ!お前が全部悪いんだっ!

 

 ふとしたきっかけで、親父から振るわれる暴力は、いつも夜の森の中だった。

 夜の森なんていう、いつ狼が出るともしれぬ危険の中、殴られ過ぎて抵抗も出来ずにいる俺の耳には、いつも微かに“死の歌”が聞こえてきていたものだ。

 

———-くたばれ!お前など、くたばってしまえ!

 

 そう、親父の暴力はいつだって“死の崖”のすぐ傍で行われていたのだ。きっと、親父は俺を、いつも、いつだって殺したがっていたのだ。きっかけがあれば、俺など、いつあの崖下に突き落とされてもおかしくなかった。

 

 俺は親父の口汚い言葉と、微かに耳につく“死の歌”を消す為に、必死に必死に頭の中で歌い続けた。死の歌を消さなければ、俺は死に引きずり込まれると、本能的に恐れていたからだ。

 

 だから、崖には近寄ってはいけない。

 何故なら、落ちたらもう“終わり”だからだ。どんなに体が丈夫でも、どんなに若くとも、どんなに未来があっても。

 俺の血を分けた“父親”が、そうであったように、落ちたら一たまりもないのだ。

 

 だから、約束だ。約束だ。約束だ。約束だ約束だ約束だ――。

 

 約束しただろうっ!

 

 

『どうして約束を破った!?インっ!』

 

 

 その瞬間、俺の怒声が俺の耳を貫き、俺の右手には強い衝撃が走った。

 衝撃と共に、軽々と吹き飛ぶ小さな体が、俺の視界に映る。

 俺はいつも開かれていた筈の、自身の掌が、いつの間にか大嫌いな形になってしまっているのに、全く気付かなかった。その俺の手は、あの頃、親父が俺を容赦なく殴り続けた、とても悪い手になっていたのだ。

 けれど、その時の俺は頭に血が上り、吹き飛んだ先の地面で顔を地面に向け、肩を震わせる息子の姿に、何を感じる事も出来なかった。

 

『イン、答えろ。どうして約束を破った』

 

 俺の声は、まるで、俺の記憶の中に居る親父のように、酷く冷たく、一欠けらの優しさも感じられなかった。

 

 そう、俺は息子を殴ったのだ。嫌いなぐうの手で、大嫌いなアイツのように。

 

 

 

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