『インっ!オブ!どうした、その格好は!』
俺は並び立つ二人の肩に、自身の両手を乗せる。その隣にはフロムも居るが、どうやらフロムは無傷なようだ。だからこそ、最初に自然と目に入ってきたのが、この二人だったのだろう。
村の若い衆も、ボロボロの子供の姿に、なんだ、なんだと周囲に集まってくる。その中には、オポジットの声も混じっている。
『イン、それにオブ。何があった』
『えっと。……ちょっと、転んだだけ』
『転んだくらいでこんな風になるのか?』
インの、明らかに嘘の言葉に、俺の心が少しずつ冷たくなっていくのを感じる。昼間は黄色の花が咲き乱れていたのに、今の俺の心はもう真冬のようだ。
全く俺とは目を合わせようとしないインから、今度はオブの方へと顔を向ける。
『オブ……。服もだが。その手、どうした。ボロボロじゃないか』
『別に、ちょっと木から落ちそうになっただけ』
“転んだ”次は“木から落ちた”か。まったく二人の言葉に一貫性がない。明らかに嘘だ。
俺はオブの肩に乗せていた自らの手を、オブの手へと持って行く。あの、白く小さかったオブの手は、今や指の皮がところどころ剥げ、血を滲ませている。それに――。
『っう』
『こんなになるような手の痛め方を、どうやって落ちたら出来るんだ』
俺は手首が真っ赤に腫れあがってしまっている、オブの細い手首に、眉を顰めた。こんなに腫れて。もしかしたら、骨が折れているかもしれない。
一見すると体中ボロボロのインの方が重症のように見えるが、そうではないようだ。
『……本当の事を言いなさい』
俺の後ろから、ヨルの静かな声が聞こえる。その声に、それまで俺から目を逸らしていたインとオブの二人の肩が、ビクリと跳ねた。けれど、跳ねるだけで、二人共そこから口を閉ざし、俯くばかりだ。
ここまで来れば、俺はもう多少の予想が付いていた。いや、俺だけではない。きっとヨル以外の此処に居る大人は、全員が同じ予想に辿り着いているに違いない。
『フロム!!』
またしても、俺の後ろから、今度はオポジットのハッキリとした怒りを含んだ声が聞こえてきた。その声に、フロムはビクリと体を揺らすと、二人とは違い、ハッキリと自身の父親へと視線を向けた。否、向けさせられたのだ。
『っあ、はい』
オポジットはよくフロムを躾ている。この家は、きちんと群れの筆頭者が誰かを分からせている。それこそ、オポジットの持つ“器”の正体だ。
『何があった。言え』
『……あ、えっと』
『早く』
常に堂々とした立ち居振る舞い。他者を率いる統率力と行動力。他者に壁を作らぬ親しみやすさと、それと同時に持つ、この。
『何度も言わせるな。フロム。俺の声が聞こえなかったか』
圧倒的な恐ろしさ。その両極端な二つを、オポジットはその場に応じて、瞬間的に使い分ける事が出来る。それも意図的にではなく、無意識に。だからこそ、オポジットは人の上に立つ“器”を兼ね備えるのだ。
『インが、崖から、落ちそうに、なって』
フロムが、ゴクリと間で唾を呑み下しながら、切れ切れに語る。その言葉は、その場に居た村人達の予想を、そのままなぞったような答えだった。
予想通り。子供達は崖へと向かったのだ。まさに今日、俺がインを見送る際に『行くな』と念を押した、あの“死の崖”へ。
『それを、オブが、助け、ようとして』
そして、この様か。
俺は心の中の冷たさが、より酷さを増すのを感じた。もう、俺の心は吹雪いている。冷たい。冷たすぎて、けれど熱くもある。まるで、真冬に、掌を真水に長い事つけてしまった時のような、そんな痛みすら伴う冷たさだった。
『あれほど崖には行くなと、言っていた筈だが』
オポジットの声が徐々に怒気を強めていく。けれど、最初のように怒鳴りはしない。それが、どれほどフロムや子供達に恐怖を与えているだろう。
けれど、父親からの恐怖に震えるフロムは、きちんと“正解”を選んだと言える。まだ、賢い。それもこれも、全てオポジットが上手く躾ているからだ。
誤った選択の中、このフロムだけはきちんと正しい選択をした。そして、この中で最も愚かな事をしたのは――。
『オポジット。すまないが、フロムを叱るのは。最後の最後にしてくれ。この3人の中で、フロムが最も賢い。叱られるべきは、まずはフロムではない』
俺はインとオブから手を離し、一旦膝をついていた体を立ち上がらせた。立ち上がり、チラと振り向いた先に居るオポジットを見る。
『……そうか。スルー』
オポジットの頷く姿を確認すると、俺は次いでヨルを見た。そこには、崖の事など知らぬ、一人の貴族の男が立っていた。この男の息子が、この3人の中で最も愚かな事をした。けれど、その行為のきっかけになったのは、俺の息子。
インだ。
『イン』
俺はザンから視線を逸らすと、未だに地面に視線を落とし。此方を見ようともしない息子の名を、静かに呼んだ。返事はない。
『約束を、破ったな』
『……だって、早く、大人に、なりたくて』
『崖に行ったらなれるのか』
『……大人になる、ための』
——くすりを。
と、小さな声でインが口にした時。俺は自身の手でインの顎を掴んだ。掴んで無理やり顔を上げさせる。その瞬間、インの目が俺を映した。その瞳は、大きく見開かれ、恐怖に塗れていた。その目に映るのは、ケダモノのような姿をした“俺”の姿だった。
『いいか?イン。崖に行っても大人にはなれない。むしろ、お前は今日、大人になるどころか、子供のまま永遠に居続けるところだったんだ』
『っ!』
『お前の大事な友達、もろともだ!』
俺は見た筈のない光景を目の前に見た気がした。
足を滑らせ、崖の淵にしがみつくインを、オブが必死に掴む姿を。オブが最も愚かだ。一歩間違えれば、一人の犠牲が、二人になる所だったのだから。
『イン!お前は人殺しになる所だったんだ!』
この時、それまで開かれていた俺の掌が、ハッキリと拳を作った。人を殴る為の、悪い手に。俺の手はなってしまったのだ。
『どうして約束を破った!?インっ!』
そして、気付いた時には、インの体は吹き飛び、俺の手には嫌な感触が残っている。けれど、俺はここで止まる事は出来ない。俺は、自分の子を、きちんと躾ける事が出来ていなかった。俺の親としての至らなさが、他所の大事な子供の命まで奪う所だったのだ。
他所の、そう。ヨルの子の、命までも。
そして、俺は――。
『イン、答えろ。どうして約束を破った』
我が子を失う所だった。