『スルー』
けれど、俺が“死の歌”に手を引かれ、連れて行かれる事はなかった。何故なら、俺の名と共に、ガシリと俺の手が握り締められていたからだ。
『それ以上は行くな。危ない』
『……っ、そうだったな』
気付けば崖の際ギリギリの所まで来ていた。あぁ、なんてことだろう。昼間は大いにインを叱り飛ばしたというのに、なんだ。このザマは。
そう、少しだけ後ろめたい気持ちになりながら、ヨルの手の引く方へと体を向けた。
『まったく。お前という奴は』
ヨルの苦笑が俺の耳をつく。あれ?どうして、ヨルの声が耳元で聞こえてくるのだろう。
『スルー。お前に俺から一つ“約束”をしなければいけなくなったな』
ヨルの匂いもたくさん香ってくる。俺の好きな匂いだ。視界もおかしい。なにやら、ヨルの耳が目の前に見える。
『……約束?』
どうやら、俺はヨルに抱きしめられているようだ。道理で、先程まで濡れて冷たかった体が、温かくなったと思った。
『スルー。此処には一人で来るな。来るときは、必ず俺を連れて行け』
『来るな、とは言わないんだな』
『そう言っても、お前は一人で来そうだからな。それなら、まだ守れる約束にした方が良いだろう』
『……確かに』
来るな、と言われても。俺はまた此処に来てしまうだろう。なにせ、こんなにも美しいのだ。何度だって見たくなる。
『スルー、約束しろ。いいな』
俺の後頭部に、ヨルの片手が添えられた。そのまま、髪の毛にヨルの手が絡む感覚が走る。けれど、撫でられはしない。絡められ、添えられるだけだ。
あぁ、撫でてくれないのだろうか。撫でて欲しい。
俺はなんと言えばヨルが撫でてくれるのか分かっていた。分かっていたから、ソレを躊躇いなく口にする。
『約束する』
『いい子だ』
そうヨルの首元で頷き、返事をすれば、ヨルの痺れるような甘い声が俺の耳を撫でた。『良い子だ』と言って、撫でられると気持ち良くて頭がぼんやりとしてしまう。ぼんやりする頭でふと思う。
そうだ、俺はまだヨルに質問の答えを返せていなかった。
『ヨル……俺にとってヨルは、俺より、かわいい』
『……どうしてそうなる』
俺は頭をヨルの肩と首の間に預けながら、思った事をそのまま口にした。ヨルは俺にとって“友達”ではない。ヨルはインには思わない事を、たくさん思うからだ。インとはしない事を、たくさんするからだ。
『俺の次でも、俺と同じくらいでもない。俺より、可愛い』
『……』
決定的に違うのは、“サヨナラ”の後の、腹の底に居る“小さなスルー”の姿だ。
インが俺に『おとうさん、さよなら!』と、手を振る時、俺はきっとインに向かって大きく手を振れる。走り去る背中を見送りながら、『元気でな!』と、“小さなスルー”と共に、心の底から叫ぶ事が出来るに違いない。
俺はインの幸福を、心の底から願う事ができる。
『かわいいんだ。ヨルは、かわいい。俺にとって、俺より、何より、一番かわいい』
『…………』
けれど、ヨルにはそんなのは出来っこなかった。
いや、きっと表面上は“いつもの”スルーが『サヨナラ』を言ってくれるだろう。けれど、俺のお腹の底に居る“小さなスルー”は、きっとそうはいかない。
ヨルとのサヨナラの後、きっとたくさん泣くだろう。『ヨル、ヨル。行かないで』と、子供のように泣き続け、きっと死んでも泣き続けるに違いない。
ヨルの幸福なんて、願う余裕などなさそうだ。
『スルー』
『ん?』
俺は、いつか訪れるであろう、泣き続ける小さなスルーとの出会いの日を思いながら、ヨルの呼びかけに答えた。
『俺と、もう一つ、約束をしないか?』
『約束?』
『そうだ。インやオブのような約束を、俺達もしよう』
ヨルの静かな言葉は、俺の腹の底に居る小さなスルーの心も揺らした。
インやオブのような約束?それは、一体どんな約束だ?
『互いに……そうだな。父親としての役割、家長としての務めを果たし終わったら』
『ヨル、難しい言葉を使わないでくれ。もっと、簡単に言ってくれなければ、俺は約束がうまくできない』
ヨルの口からもたらされる、“約束”を前に、俺はヨルの肩から頭を離し、ヨルの腕から離れた。離れようとした時、最初はヨルの腕から力強い抵抗を受けたが、それでも俺はヨルの体を押しやった。
約束は、顔を見ながらしなければ。俺はヨルの耳と約束をする訳ではないのだから。
『ヨル。恥ずかしがらずに、もう一回言うんだ』
『……別に、恥ずかしがってなどいない』
嘘をつけ。と思わず口をついて出そうになる。ヨルは俺がヨルを『かわいい』と口にした辺りから、耳を真っ赤にし始めたではないか。抱きしめられながら、俺はヨルの耳だけはハッキリと見えていたので、その色の変化も全部見ている。
『俺は何をしたらいいんだ?何をしたら、ヨルと何をするんだ?今はもう“ザン”じゃない。“ヨル”だろう。だったら、もう勇気が持てるはずだ』
嘘を吐け。の代わりに、畳みかけるようにヨルに言葉を募らせる。何一つ分かっちゃいない“約束”だけれども、なんとなく、それが俺にとって素晴らしいモノだと予想がつく。
俺は早くヨルと“約束”がしたいのだ。
『もし、俺達が互いに……そうだな。家族を、守りきり、幸せに出来たら』
『ああ』
『……俺の、所に来ないか』
ヨルの言葉に、俺はしばらく目を瞬かせた。
ヨルの所に?誰が?そんなのは決まっている。ここには俺しかいない。ヨルも俺を見ている。となれば、もちろんその“誰”は、この俺、スルーで間違いなさそうだ。
『いや、そうだな。俺がお前を迎えに行く。もう場所は、どこでもいい』
『ヨルが俺を迎えに来て、そしてどうするんだ?』
『ずっと一緒に居る』
ずっと一緒。
そう、俺の耳にスルリと入り込んで来た言葉に、俺は心の中が大きく弾けたような気持ちになった。腹の底に居る“小さなスルー”も、あまりのヨルの予想外な言葉に、ポカンとしているようだった。
『それは、サヨナラした後も、またヨルと会えるという事か?』
『あぁ』
『次の次の秋の、もっと先の話か?』
『あぁ』
『また会えたら、今度はサヨナラせず。ずっとと言うのは、死ぬまで一緒という事か?』
『そうだ』
ヨルの深く頷く姿が、俺の心をたくさんたくさん温かくする。いや、温かいなんてものじゃない。あつい。でも、これは火事みたいにゴウゴウと燃え盛るような熱さじゃなくて、夏の夜に、二人でたくさん抱き締めあっているような、そんな熱さだ。
まさに、今だ。
『っヨル!!』
『っうわ!』
俺は目の前のヨルに一気に抱き着くと、そのままヨルを地面に押し倒した。余りにも嬉し過ぎて、今の俺は俺を上手く操れない。腹の底に居る“小さなスルー”の言うがままだ。
『俺は、イン達が巣立って、ヴィアも森に帰って行ったら、もう一人で死ぬだけだと思っていたんだ!』
『なにを、』
『でも、さすがの俺も、死ぬまでには少しだけ時間がある。どうしようかと、ずっと思っていた!ずっと一人は寂しいし、かと言って早く死のうにも、俺は丈夫だ!なかなか死なないだろうから困っていた!』
困っていた、なんてものじゃない。少し“絶望”していた。これから生きる為の“望み”が、一つもなくなっていたのだ。
『だから、もう一人が嫌になったら、この崖から飛び降りるのもいいかなと、思っていたんだ』
『スルー、お前。そんな事を考えていたのか』
俺の腕の下から、ヨルの手が、またしても俺の頬へと触れる。その眉間には、深い皺が刻まれていた。俺はこのヨルの皺も好きだ。こう言ってはヨルから叱られるかもしれないが、この不機嫌で不満そうな顔も、とてもヨルにはお似合いだと思うのだ。
『子供の巣立った後の親の役割は、黙って死ぬ事だと思っていた。どうせする事もないし。あまり老いては、子供達の邪魔になるしな』
『スルー。もうそれ以上、そんな事を言うな』
ヨルの声が少しだけ上ずる。泣きそう、と言っていいのか。ちょっといつもとは違う声だ。
『スルー、俺と約束をしろ。そんな事を言われてしまっては、否という選択肢は受け入れない。お前が嫌だと言っても、俺が迎えに行く』
そうどこか必死な様子で言われ、俺はまだヨルからの『約束をしよう』という問いかけに、何も答えを返せていなかった事に気付いた。否など、言う筈もない。俺にとっても“否”なんて選択肢は、あってないようなものだ。
『約束する!家族を守って幸せにして、俺はヨルが迎えに来るのを待とう!そして、また会えたら、今度は死ぬまで一緒だ!ずっと一緒に居て、ずっと一緒に歌ったり踊ったりして、一生楽しく過ごすんだ!』
“小さなスルー”が飛んだり跳ねたりしながら、思いのままに返事をする。ヨルの前だと、いつもこうだ。いつものスルーと、小さなスルーが、いつも手を取り合って同じように言葉を紡ぎ出せる。
ヨルの前では、俺も心のままに振る舞えるという事を、俺はずっと前から分かっていた。ヨルは昼間も俺を自由にしてくれる。
『約束したぞ、スルー』
その瞬間、ヨルの瞳が大きく変化した。揺れていた筈の瞳は、今や固い意思と、そして力強さを宿している。
ヨルの鋭い視線が俺を捕らえ、頬を撫でていたヨルの右手が、そのまま俺の頭の後ろへと添えられる。また、撫でてくれるのだろうか、と俺が胸を高鳴らせてると、どうやらその右手の役割は“よしよし”ではなかったようだ。
『ぁ』
ヨルの右手に力が籠る。
そのまま、ヨルの右手は俺の頭を自分の方へと押してきた。待て待て。このままでは、俺の顔とヨルの顔がぶつかってしまう。
けれど、俺はヨルの“こうしんりょく”だ。俺はヨルを避けないし、そもそも避ける事なんて出来ない。だから、ヨルが“まさつりょく”で、きっといつものように俺から逃げてくれる筈だ。そう思ったが、鼻先が触れる程になっても、ヨルは俺から逃げようとはしなかった。
『っ』
ぶつかる、と思わず目を閉じた。
ぶつかった。静かに、俺とヨルはぶつかった。ぶつかるというには、ソレは柔らかく、温かかった。痛くもなく、むしろ気持ちが良い。
死の歌が遠くに聞こえる。その歌と共に、美しい光景が、瞼の向こうに広がった。あれは、本当に美しい光景だった。
『ふ』
『っは』
俺の頭に回されたヨルの手に、力が籠る。そのせいで、俺とヨルは更に深く、深くぶつかった。ぶつかり続けた。もう片方のヨルの手が、俺の背へと回される。俺は地面を肘でつきながら、余った掌でヨルの顔を包んだ。
そうしたいと、本能で思った。
かわいい、かわいい、俺のヨル。俺だけの、ヨル。
死の歌の合間に聞こえてくる、別の音。その、唾液が絡む水音は、死の歌みたいに美しくなくて、どこか生々しい。美しいか美しくないかで言えば、まったく美しくない。けれど、それで良かった。
互いに深くぶつかってしまったせいで、止め時も分からずしばらく貪るように求め合ってしまった。
『…………』
『…………』
しばらくして、俺とヨルの顔が自然と離れる。互いの顔を見つめ合うその目は、きっと今までの相手に向けていた目とは、少しだけ違うかもしれない。きっと、これまでよりも、ほんの少し熱い。
『ヨル……。これは、なんだ』
『永遠を誓う時に、二人がする事だ』
『そっか……そうか!』
ヨルからの答えに、俺は嬉しくなるとヨルの首元に俺の頭をこすり付けた。これは、よくけもる達が俺にしてくれる事だ。
俺が来ると『だいすき、するー』とでも言うように、嬉しそうに頭をグイグイと体に押し付けてくるのだ。そんな風にされると、された俺まで嬉しくなる。
だから、俺もけもる達の真似をして、全身全霊でヨルへと伝える事にした。頭をグイグイとヨルに押し付けながら、こすりつける。
『ヨル、ヨル、ヨル。大好きだ!』
『……大好き、か。まぁ、今はそれでいいか』
苦笑するようなヨルの言葉に、俺は更に頭を押し付けると、その頭はヨルによって優しく撫でられた。こうして、俺は死ぬだけだった人生の先に、ヨルとの素敵な約束を交わしたのであった。
〇
『スルーさん』
次の日、広場の真ん中で、俺は小さなヨル……いや、違った。オブに声をかけられていた。オブから俺へと声を掛けてくるなんて珍しい。珍しいどころか、初めてだ。
しかも昨日、“あんな事”があった後だと言うのに。
『オブ』
俺がオブの名を呼び、チラとオブの手首へと目をやれば、そこには真っ白い布でグルグル巻きにされ、何か板のようなモノで固定された姿が見えた。
オブの後ろには、ヨルも居る。どうやら、医者に診せてきた後のようだ。
『その手、どうだった』
『若いから、こんなのはすぐに治るって言われた』
不機嫌そうな声が告げる。その言葉に、俺は一気に胸を撫でおろした。あぁ、良かった。大事には至らなかったようだ。けれど、だとしたらどうしたのだろうか。
オブが、そんな事を俺に伝える為だけに話しかけてくるとは思えない。それも、一番に伝えたい筈のインよりも先に、俺の所になど。
だとすれば、オブが言いたい事はきっと別にあるのだ。
『さぁて、俺に何か言いたげだな?オブ』
『言う事がなければ、貴方なんかに話しかけない』
ごもっともだ。スンとした、跳ねのけるような冷たい言葉。けれど、それはそれで、いつものオブなのだ。昨日の事があって、特別に俺に冷たい訳ではない。オブという少年は、ずっとこうだ。
『昨日、お前は言ったよな』
『なんて?』
『また、インに同じような事があったら、見捨てろって』
『あぁ、言ったな』
その、ポンポンとまるで互いに小石を投げ合うような言葉のやりとり。俺は、存外その投げ合いが、嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。
『誓わないからな!俺は何度同じ事があっても、インを見捨てたりしない!』
『お前も一緒に死ぬ事になってもか?』
『あぁ、かまわないね。インだけ死なせるくらいなら、おれは……俺は一緒にインと崖底に落ちてやる!』
オブはそれだけ言うと、自由の利かない右手を抱え、俺の脇を走り去って行った。その走り去る男の子の向かう場所は、きっとあの子の所だ。俺は振り返って、駆けだすオブの背中を見つめ、大きく手を振る。
『オブー!』
返事はない。振り返られる事もない。けれど、聞こえているはずだ。
『インを一生よろしくなー!』
俺の声と大きく振られた手は、オブの背を大きく揺らし、そして村中に響き渡った。それと同時に、俺の隣へ誰かが並び立ってくる。
『遅くなったな。スルー。今日も仕事に取り掛かるぞ』
『あぁ、ザン。今日も頑張ろう!』
もう、夏の盛りは目の前だ。
暑い日差しの下、俺はヨルの隣でぱぁだった手をぐぅにした。このぐぅは、人を殴る悪い手ではない。今日も一日、頑張るぞの手だ。
『ヨル、今日は一緒に水浴びをしような』
『……あぁ』
俺はこっそりとヨルだけに聞こえるように言ってやると、頷かれた返事に、その場から飛びあがった。
この夏、疾風は俺の予想通り、数も少なく、威力も小さかった。
荒地の街道は、疾風の後も、土砂崩れを起こす事はなく、砂利を敷いた街道は大量の雨の後も、街道としての体を保ち続けた。
秋の終わり。最後の疾風を乗り切った“荒地の街道”に、村人達からは大きな歓声が上がった。
こうして、この村は少しずつ、少しずつ変化を受け入れていった。
そして、冬の入口の手をかけ始めたある日。
弟のヴァーサスが、サヨナラも言わずに、この世を去った。