66:金持ち父さん、貧乏父さん(66)

 

『スルー』

 

 けれど、俺が“死の歌”に手を引かれ、連れて行かれる事はなかった。何故なら、俺の名と共に、ガシリと俺の手が握り締められていたからだ。

 

『それ以上は行くな。危ない』

『……っ、そうだったな』

 

 気付けば崖の際ギリギリの所まで来ていた。あぁ、なんてことだろう。昼間は大いにインを叱り飛ばしたというのに、なんだ。このザマは。

 そう、少しだけ後ろめたい気持ちになりながら、ヨルの手の引く方へと体を向けた。

 

『まったく。お前という奴は』

 

 ヨルの苦笑が俺の耳をつく。あれ?どうして、ヨルの声が耳元で聞こえてくるのだろう。

 

『スルー。お前に俺から一つ“約束”をしなければいけなくなったな』

 

 ヨルの匂いもたくさん香ってくる。俺の好きな匂いだ。視界もおかしい。なにやら、ヨルの耳が目の前に見える。

 

『……約束?』

 

どうやら、俺はヨルに抱きしめられているようだ。道理で、先程まで濡れて冷たかった体が、温かくなったと思った。

 

『スルー。此処には一人で来るな。来るときは、必ず俺を連れて行け』

『来るな、とは言わないんだな』

『そう言っても、お前は一人で来そうだからな。それなら、まだ守れる約束にした方が良いだろう』

『……確かに』

 

 来るな、と言われても。俺はまた此処に来てしまうだろう。なにせ、こんなにも美しいのだ。何度だって見たくなる。

 

『スルー、約束しろ。いいな』

 

 俺の後頭部に、ヨルの片手が添えられた。そのまま、髪の毛にヨルの手が絡む感覚が走る。けれど、撫でられはしない。絡められ、添えられるだけだ。

あぁ、撫でてくれないのだろうか。撫でて欲しい。

 

俺はなんと言えばヨルが撫でてくれるのか分かっていた。分かっていたから、ソレを躊躇いなく口にする。

 

『約束する』

『いい子だ』

 

 そうヨルの首元で頷き、返事をすれば、ヨルの痺れるような甘い声が俺の耳を撫でた。『良い子だ』と言って、撫でられると気持ち良くて頭がぼんやりとしてしまう。ぼんやりする頭でふと思う。

 そうだ、俺はまだヨルに質問の答えを返せていなかった。

 

『ヨル……俺にとってヨルは、俺より、かわいい』

『……どうしてそうなる』

 

 俺は頭をヨルの肩と首の間に預けながら、思った事をそのまま口にした。ヨルは俺にとって“友達”ではない。ヨルはインには思わない事を、たくさん思うからだ。インとはしない事を、たくさんするからだ。

 

『俺の次でも、俺と同じくらいでもない。俺より、可愛い』

『……』

 

 決定的に違うのは、“サヨナラ”の後の、腹の底に居る“小さなスルー”の姿だ。

 インが俺に『おとうさん、さよなら!』と、手を振る時、俺はきっとインに向かって大きく手を振れる。走り去る背中を見送りながら、『元気でな!』と、“小さなスルー”と共に、心の底から叫ぶ事が出来るに違いない。

 

俺はインの幸福を、心の底から願う事ができる。

 

『かわいいんだ。ヨルは、かわいい。俺にとって、俺より、何より、一番かわいい』

『…………』

 

 けれど、ヨルにはそんなのは出来っこなかった。

 いや、きっと表面上は“いつもの”スルーが『サヨナラ』を言ってくれるだろう。けれど、俺のお腹の底に居る“小さなスルー”は、きっとそうはいかない。

 

ヨルとのサヨナラの後、きっとたくさん泣くだろう。『ヨル、ヨル。行かないで』と、子供のように泣き続け、きっと死んでも泣き続けるに違いない。

 

ヨルの幸福なんて、願う余裕などなさそうだ。

 

『スルー』

『ん?』

 

 俺は、いつか訪れるであろう、泣き続ける小さなスルーとの出会いの日を思いながら、ヨルの呼びかけに答えた。

 

『俺と、もう一つ、約束をしないか?』

『約束?』

『そうだ。インやオブのような約束を、俺達もしよう』

 

 ヨルの静かな言葉は、俺の腹の底に居る小さなスルーの心も揺らした。

インやオブのような約束?それは、一体どんな約束だ?

 

『互いに……そうだな。父親としての役割、家長としての務めを果たし終わったら』

『ヨル、難しい言葉を使わないでくれ。もっと、簡単に言ってくれなければ、俺は約束がうまくできない』

 

 ヨルの口からもたらされる、“約束”を前に、俺はヨルの肩から頭を離し、ヨルの腕から離れた。離れようとした時、最初はヨルの腕から力強い抵抗を受けたが、それでも俺はヨルの体を押しやった。

 約束は、顔を見ながらしなければ。俺はヨルの耳と約束をする訳ではないのだから。

 

『ヨル。恥ずかしがらずに、もう一回言うんだ』

『……別に、恥ずかしがってなどいない』

 

 嘘をつけ。と思わず口をついて出そうになる。ヨルは俺がヨルを『かわいい』と口にした辺りから、耳を真っ赤にし始めたではないか。抱きしめられながら、俺はヨルの耳だけはハッキリと見えていたので、その色の変化も全部見ている。

 

『俺は何をしたらいいんだ?何をしたら、ヨルと何をするんだ?今はもう“ザン”じゃない。“ヨル”だろう。だったら、もう勇気が持てるはずだ』

 

 嘘を吐け。の代わりに、畳みかけるようにヨルに言葉を募らせる。何一つ分かっちゃいない“約束”だけれども、なんとなく、それが俺にとって素晴らしいモノだと予想がつく。

俺は早くヨルと“約束”がしたいのだ。

 

『もし、俺達が互いに……そうだな。家族を、守りきり、幸せに出来たら』

『ああ』

『……俺の、所に来ないか』

 

 ヨルの言葉に、俺はしばらく目を瞬かせた。

ヨルの所に?誰が?そんなのは決まっている。ここには俺しかいない。ヨルも俺を見ている。となれば、もちろんその“誰”は、この俺、スルーで間違いなさそうだ。

 

『いや、そうだな。俺がお前を迎えに行く。もう場所は、どこでもいい』

『ヨルが俺を迎えに来て、そしてどうするんだ?』

『ずっと一緒に居る』

 

 ずっと一緒。

 そう、俺の耳にスルリと入り込んで来た言葉に、俺は心の中が大きく弾けたような気持ちになった。腹の底に居る“小さなスルー”も、あまりのヨルの予想外な言葉に、ポカンとしているようだった。

 

『それは、サヨナラした後も、またヨルと会えるという事か?』

『あぁ』

『次の次の秋の、もっと先の話か?』

『あぁ』

『また会えたら、今度はサヨナラせず。ずっとと言うのは、死ぬまで一緒という事か?』

『そうだ』

 

 ヨルの深く頷く姿が、俺の心をたくさんたくさん温かくする。いや、温かいなんてものじゃない。あつい。でも、これは火事みたいにゴウゴウと燃え盛るような熱さじゃなくて、夏の夜に、二人でたくさん抱き締めあっているような、そんな熱さだ。

 

 まさに、今だ。

 

『っヨル!!』

『っうわ!』

 

 俺は目の前のヨルに一気に抱き着くと、そのままヨルを地面に押し倒した。余りにも嬉し過ぎて、今の俺は俺を上手く操れない。腹の底に居る“小さなスルー”の言うがままだ。

 

『俺は、イン達が巣立って、ヴィアも森に帰って行ったら、もう一人で死ぬだけだと思っていたんだ!』

『なにを、』

『でも、さすがの俺も、死ぬまでには少しだけ時間がある。どうしようかと、ずっと思っていた!ずっと一人は寂しいし、かと言って早く死のうにも、俺は丈夫だ!なかなか死なないだろうから困っていた!』

 

 困っていた、なんてものじゃない。少し“絶望”していた。これから生きる為の“望み”が、一つもなくなっていたのだ。

 

『だから、もう一人が嫌になったら、この崖から飛び降りるのもいいかなと、思っていたんだ』

『スルー、お前。そんな事を考えていたのか』

 

 俺の腕の下から、ヨルの手が、またしても俺の頬へと触れる。その眉間には、深い皺が刻まれていた。俺はこのヨルの皺も好きだ。こう言ってはヨルから叱られるかもしれないが、この不機嫌で不満そうな顔も、とてもヨルにはお似合いだと思うのだ。

 

『子供の巣立った後の親の役割は、黙って死ぬ事だと思っていた。どうせする事もないし。あまり老いては、子供達の邪魔になるしな』

『スルー。もうそれ以上、そんな事を言うな』

 

 ヨルの声が少しだけ上ずる。泣きそう、と言っていいのか。ちょっといつもとは違う声だ。

 

『スルー、俺と約束をしろ。そんな事を言われてしまっては、否という選択肢は受け入れない。お前が嫌だと言っても、俺が迎えに行く』

 

 そうどこか必死な様子で言われ、俺はまだヨルからの『約束をしよう』という問いかけに、何も答えを返せていなかった事に気付いた。否など、言う筈もない。俺にとっても“否”なんて選択肢は、あってないようなものだ。

 

『約束する!家族を守って幸せにして、俺はヨルが迎えに来るのを待とう!そして、また会えたら、今度は死ぬまで一緒だ!ずっと一緒に居て、ずっと一緒に歌ったり踊ったりして、一生楽しく過ごすんだ!』

 

 “小さなスルー”が飛んだり跳ねたりしながら、思いのままに返事をする。ヨルの前だと、いつもこうだ。いつものスルーと、小さなスルーが、いつも手を取り合って同じように言葉を紡ぎ出せる。

 ヨルの前では、俺も心のままに振る舞えるという事を、俺はずっと前から分かっていた。ヨルは昼間も俺を自由にしてくれる。

 

『約束したぞ、スルー』

 

 その瞬間、ヨルの瞳が大きく変化した。揺れていた筈の瞳は、今や固い意思と、そして力強さを宿している。

ヨルの鋭い視線が俺を捕らえ、頬を撫でていたヨルの右手が、そのまま俺の頭の後ろへと添えられる。また、撫でてくれるのだろうか、と俺が胸を高鳴らせてると、どうやらその右手の役割は“よしよし”ではなかったようだ。

 

『ぁ』

 

 ヨルの右手に力が籠る。

そのまま、ヨルの右手は俺の頭を自分の方へと押してきた。待て待て。このままでは、俺の顔とヨルの顔がぶつかってしまう。

 

 けれど、俺はヨルの“こうしんりょく”だ。俺はヨルを避けないし、そもそも避ける事なんて出来ない。だから、ヨルが“まさつりょく”で、きっといつものように俺から逃げてくれる筈だ。そう思ったが、鼻先が触れる程になっても、ヨルは俺から逃げようとはしなかった。

 

『っ』

 

 ぶつかる、と思わず目を閉じた。

 

 

 ぶつかった。静かに、俺とヨルはぶつかった。ぶつかるというには、ソレは柔らかく、温かかった。痛くもなく、むしろ気持ちが良い。

 死の歌が遠くに聞こえる。その歌と共に、美しい光景が、瞼の向こうに広がった。あれは、本当に美しい光景だった。

 

『ふ』

『っは』

 

俺の頭に回されたヨルの手に、力が籠る。そのせいで、俺とヨルは更に深く、深くぶつかった。ぶつかり続けた。もう片方のヨルの手が、俺の背へと回される。俺は地面を肘でつきながら、余った掌でヨルの顔を包んだ。

そうしたいと、本能で思った。

 

かわいい、かわいい、俺のヨル。俺だけの、ヨル。

 

死の歌の合間に聞こえてくる、別の音。その、唾液が絡む水音は、死の歌みたいに美しくなくて、どこか生々しい。美しいか美しくないかで言えば、まったく美しくない。けれど、それで良かった。

 

互いに深くぶつかってしまったせいで、止め時も分からずしばらく貪るように求め合ってしまった。

 

『…………』

『…………』

 

しばらくして、俺とヨルの顔が自然と離れる。互いの顔を見つめ合うその目は、きっと今までの相手に向けていた目とは、少しだけ違うかもしれない。きっと、これまでよりも、ほんの少し熱い。

 

『ヨル……。これは、なんだ』

『永遠を誓う時に、二人がする事だ』

『そっか……そうか!』

 

 ヨルからの答えに、俺は嬉しくなるとヨルの首元に俺の頭をこすり付けた。これは、よくけもる達が俺にしてくれる事だ。

俺が来ると『だいすき、するー』とでも言うように、嬉しそうに頭をグイグイと体に押し付けてくるのだ。そんな風にされると、された俺まで嬉しくなる。

 

 だから、俺もけもる達の真似をして、全身全霊でヨルへと伝える事にした。頭をグイグイとヨルに押し付けながら、こすりつける。

 

『ヨル、ヨル、ヨル。大好きだ!』

『……大好き、か。まぁ、今はそれでいいか』

 

 苦笑するようなヨルの言葉に、俺は更に頭を押し付けると、その頭はヨルによって優しく撫でられた。こうして、俺は死ぬだけだった人生の先に、ヨルとの素敵な約束を交わしたのであった。

 

 

        〇

 

 

『スルーさん』

 

次の日、広場の真ん中で、俺は小さなヨル……いや、違った。オブに声をかけられていた。オブから俺へと声を掛けてくるなんて珍しい。珍しいどころか、初めてだ。

しかも昨日、“あんな事”があった後だと言うのに。

 

『オブ』

 

 俺がオブの名を呼び、チラとオブの手首へと目をやれば、そこには真っ白い布でグルグル巻きにされ、何か板のようなモノで固定された姿が見えた。

オブの後ろには、ヨルも居る。どうやら、医者に診せてきた後のようだ。

 

『その手、どうだった』

『若いから、こんなのはすぐに治るって言われた』

 

 不機嫌そうな声が告げる。その言葉に、俺は一気に胸を撫でおろした。あぁ、良かった。大事には至らなかったようだ。けれど、だとしたらどうしたのだろうか。

 オブが、そんな事を俺に伝える為だけに話しかけてくるとは思えない。それも、一番に伝えたい筈のインよりも先に、俺の所になど。

 

 だとすれば、オブが言いたい事はきっと別にあるのだ。

 

『さぁて、俺に何か言いたげだな?オブ』

『言う事がなければ、貴方なんかに話しかけない』

 

 ごもっともだ。スンとした、跳ねのけるような冷たい言葉。けれど、それはそれで、いつものオブなのだ。昨日の事があって、特別に俺に冷たい訳ではない。オブという少年は、ずっとこうだ。

 

『昨日、お前は言ったよな』

『なんて?』

『また、インに同じような事があったら、見捨てろって』

『あぁ、言ったな』

 

 その、ポンポンとまるで互いに小石を投げ合うような言葉のやりとり。俺は、存外その投げ合いが、嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。

 

『誓わないからな!俺は何度同じ事があっても、インを見捨てたりしない!』

『お前も一緒に死ぬ事になってもか?』

『あぁ、かまわないね。インだけ死なせるくらいなら、おれは……俺は一緒にインと崖底に落ちてやる!』

 

 オブはそれだけ言うと、自由の利かない右手を抱え、俺の脇を走り去って行った。その走り去る男の子の向かう場所は、きっとあの子の所だ。俺は振り返って、駆けだすオブの背中を見つめ、大きく手を振る。

 

『オブー!』

 

 返事はない。振り返られる事もない。けれど、聞こえているはずだ。

 

『インを一生よろしくなー!』

 

 俺の声と大きく振られた手は、オブの背を大きく揺らし、そして村中に響き渡った。それと同時に、俺の隣へ誰かが並び立ってくる。

 

『遅くなったな。スルー。今日も仕事に取り掛かるぞ』

『あぁ、ザン。今日も頑張ろう!』

 

 もう、夏の盛りは目の前だ。

 暑い日差しの下、俺はヨルの隣でぱぁだった手をぐぅにした。このぐぅは、人を殴る悪い手ではない。今日も一日、頑張るぞの手だ。

 

『ヨル、今日は一緒に水浴びをしような』

『……あぁ』

 

 俺はこっそりとヨルだけに聞こえるように言ってやると、頷かれた返事に、その場から飛びあがった。

 

 

 この夏、疾風は俺の予想通り、数も少なく、威力も小さかった。

荒地の街道は、疾風の後も、土砂崩れを起こす事はなく、砂利を敷いた街道は大量の雨の後も、街道としての体を保ち続けた。

 秋の終わり。最後の疾風を乗り切った“荒地の街道”に、村人達からは大きな歓声が上がった。

 

こうして、この村は少しずつ、少しずつ変化を受け入れていった。

 

 そして、冬の入口の手をかけ始めたある日。

 

 

 弟のヴァーサスが、サヨナラも言わずに、この世を去った。