74:金持ち父さん、貧乏父さん(74)

 今、この男は何と言った?

 

———-あんな貴族の男なんぞに肌を許すなど。

 

 そう、言わなかっただろうか。

 

『ぁ、え?』

 

 吐き捨てられた言葉の意味を俺の心が正しく拾い上げた瞬間、俺の髪の毛から先程なげつけられたスープの汁がしたたり落ちる。拭いたばかりの床が、そのせいでまたしても汚れていった。

 

けれど、いくら床が汚れて濡れていこうとも、俺の手はピクリとも動かなくなってしまった。それだけではない。全ての思考が止まり、体からはダラリと力が抜け落ちる。『は、は』と、今や呼吸すらままならない。

 

そんな俺の様子に、親父はやっと気を良くしたのか、その声に心の底からの侮蔑を含み、たいそう愉快そうに言った。

 

『どうやってあの男に取り入った?相手をすれば金をやると言われたか?それとも妾にでもしてもらったか。さぞ、お前は可愛がられているんだろうよ。でなければ、お前が他の村人達と、あぁもまともに関われまい。あの貴族の事だ。どうせ、他の若い連中にも金を掴ませているんだろうよ。まったく』

——–汚らわしい。

 

 そう、椅子の上から、床に膝をつく俺を心から汚いモノを見るような目で見て口にされる言葉の、なんと冷ややかな事か。しかも、その“汚らわしい”という言葉には、俺だけでなくヨルも含まれている事が分かる。

 

 その事実が、固まっていた俺の心をやっと動かした。

ヨルは、汚らわしくなんてない。ヨルは、美しい。素敵で、とても素晴らしい男だ。

俺は短い呼吸を何度か繰り返すと、男の目を真正面から受け止めた。

 

『なんで』

 

 どうして、お前が俺とヨルの事を知っているんだ。あれは俺とヨルの二人だけの“大切”だ。他の誰にも触れさせたくない。ましてや、この男なんかに踏み荒らされていいモノじゃないんだ。

 

『ヴァーサスだよ。あれは夏ごろだったか。お前らの汚らわしい行為を見たそうだ。あれから、ヴァーサスは心を病んだ。あの子は真っ直ぐで美しい子だ。お前のように、男や権力におもねり、媚びへつらう事を平気でやってのけられるような人間ではない』

『……』

『お前は本当に汚れた血だよ。なぁ、この事を村の者達が知ったらどうなると思う?』

 

 何も投げるものが無い?

そんな事はないではないか。この男は今までで最も重いモノを俺に投げつけてきた。

 

『ダメ、だ』

『お前はそもそも変わり者だ。別に知られたからと言って、今更どうという事はないだろう』

 

 分かっている癖に、そんな事を言う。俺には、この男こそ汚らわしく見えるのだが、それを今ここで叫んでも仕方がない。

 もし、ヨルが俺を大切にしてくれている事が他の皆に知られたら、きっとヨルは皆から反感を買う。

 

『それは、ダメだ……』

『っは。お前、いっちょ前に、あの男を庇うのか』

 

以前、オブがインにだけお菓子を渡していると言って、子供達の中で大いに揉めた事があった。

 

——-オブのやつ、インにばっかりお菓子を渡してるんだ

——-そんなの不公平だ!

 

 オブにとって、それがいくら純粋な好意を表しただけの行為だとしても、周囲はそうは見ない。フロムやニアのように、同じ地位と立場の人間の中でなら特に問題にならない事も、こと権力を持つ者がソレをやると、大きな問題になってしまう。

 

 あの時はしばらく、他の子らからオブもインも変に浮いてしまっていた。

 

 それからだ。オブは皆の前では巧妙にインへの特別扱いを隠すようになった。一見すると、オブのインへの好意は分かりやすいほどに表に出ているようだが、それはあくまで俺の前や隠れた場所でだけの話だ。

 

 権力のある者から、無い者への特別扱いは周囲に不協和音をもたらす。そして、それはヨルが積み上げてきた全てを崩してしまうかもしれないのだ。

 

 ヨルに土砂崩れが起こる。崩れた土砂はヨルを押しつぶしてしまうだろう。そんな事は、絶対にあってはならない。

 

『俺に、何をしろというんだ』

 

 俺は震える声を抑えつつ、卑しい笑みを浮かべる死にぞこないの男に問うた。膝と手を床に付いて男を見上げる俺は、外から見れば、まるで許しを乞うような姿に映るだろう。

 

もう、何でもいい。そもそも、俺なんかは、どうだっていいのだ。変わり者だし、頭がおかしいヤツだから。

 

——–スルー、お前だけだったんだ。俺にとって“人”であってくれたのは。

 俺もヨルだけだったんだ。俺をこんなにも大事にしてくれた他人は。だから、いい。もう、いい。

 

『さぁ、言え。アンタは俺に何を望む』

 

 強い意思を込めて、俺は“親父”を見た。すると、親父は一言だけ予想外な言葉を吐いた。

 

『その時が来たら、何も言わず口を閉ざせ』

『は?』

 

 急に口にされた意味の分からない言葉に、俺は呆けた声を上げた。絶対に、“死”を望まれるとばかり思っていた。けれど、そうではなかった。

 

“その時が来たら、何も言わず口を閉ざせ”

何だ。それは。結局俺は一体なにをどうすればいいのだ。

 

『その、時とは、どの時だ』

『その時が来れば、分かる。お前は口を閉ざしていればいい』

 

 親父はその口元にニヤリと深い笑みを浮かべた。この顔は、よく覚えている。俺に暴力を振るっている時に、俺が泣き喚くと決まってこの顔を浮かべた。そうだ、忘れていた。この男は、俺の苦しむ顔が最も好きなのだ。

 

 “死”のような一瞬で終わるモノを、コイツは俺には望んじゃいなかった。

 

だから、俺はこうしてこの年まで生きられたのだ。そう、コイツの死ぬまでの暇つぶしに、俺が大いに苦しめばきっとコイツはヨルには手を出さないだろう。

 

 良かった。コイツの目的が、俺個人で。

俺への憎しみが強いからこそ、この男にとっては、もうヨルの事も、村の事も、下手すると村長という無価値な称号すら、今やどうでもいいに違いない。

 

コイツは俺への憎しみだけで、今ここに生きている。

 

『わかった。アンタの言うようにしよう』

『そうか。ならば、さっさと床を拭け。あと、乳を搾ってこい。喉が渇いた』

『……あぁ。わかったよ』

 

 俺は何に許しを乞うでもなく、静かに覚悟した。どうってことはない。

 俺は俺へ与えられる“痛み”には慣れっこだ。苦しむフリをして、ともかくコイツの余生を楽しませてやろう。

 

『あぁ、そうだ。最後に一つだけ、アンタに言っておく』

 

 俺は床を綺麗に拭きおわり、木皿と湯呑を抱え親父の前へと立った。椅子に腰かけ、俺よりも大分下にある親父が俺に怪訝そうな顔を向ける。

 

『アンタの言う事は聞く。だから、もしアンタが、ザンに余計な事をしようとしたら、その時は――』

———今度は俺が、お前を崖の下に突き落としてやるよ。

 

 そう言って笑った俺に、親父はその瞬間驚いた表情を浮かべ、震える声で一つの名を口にした。

 

『ディスパイト』

 

 親父の口から放たれた、聞いた事のない筈の名前に、俺は何故か酷く懐かしさを覚えた。