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その後、俺は親父の望むがまま暗い中けもる達から乳を拝借し、親父に飲ませてやった。そこから改めて親父に夕食を摂らせ、ついでに部屋も掃除した。ともかく、俺は心を殺して黙って親父の前で淡々と過ごす事にした。
親父も、俺を知らぬ名で呼んだあとからは、もう何も言ってはこなかった。むしろ、もう俺の方に顔すら向ける事はなかった。
『ディスパイト、か』
親父が最後に俺を見て呟いた言葉を口にしてみる。よく分からないが、この名は酷く力をくれる。まるで、お守りのようだ。
親父の言う“その時”とやらが、一体“どの時”なのかは分からないが、ともかく俺は明日、ヨルが帰って来てくれる事だけを考えて過ごすだけだ。
ヨルに話したい事がたくさんある。一緒にしたい事もたくさんだ。
けれど――。
『まさか、ヴァーサスに見られていたとはな』
夜だからと油断していた。俺の他に、暗闇の中を出歩くような人間が居るとは思わなかった。これからは、もう少し周囲に気を配らなければ。
別に悪い事をしている訳ではない。けれど、悪い事として捉える人間が居るのも、また事実なのだ。
『場所を、変えるべきだろうか』
こんな事態になっても尚、俺がヨルに会わないという選択肢は俺の中には微塵も現れない。きっとヨルだって、俺と夜に会えなくなるのは嫌な筈だ。絶対にそうだ。だって、ヨルは俺の“愛好者”なのだから。
そうでなければ、ヨルだって俺とあんな事はしない筈だ。
『場所は……ヨルと相談して決めればいい。なんなら、俺とヨルもインやオブ達のように、秘密基地を作るのもいいかもしれないな』
親父に色々と訳の分からない事を言われたが、もしヨルに何かするような事があれば、崖から突き落としてやればいい。そう決意すると、大分心が軽い。さっきまで感じていた嫌な心臓の鼓動が、まるで嘘のようだ。
『ふふっ。秘密基地か』
だからだろうか。今はもう明日帰って来てくれるかもしれないヨルと共に、二人だけの秘密基地を作る自身の姿を思い笑顔を浮かべる余裕すら生まれてきた。
俺は他者の死を望む行為は、あの男と同じになるからと自身を諫めていたが、それはあくまで向こうが何も手を出してこない時は、である。しかし、ひとたび俺の腕の中のモノに指一本でも触れて来ようものなら。
『俺は喜んで獣になってやる』
もう、その覚悟は決めてあるのだ。
『そうだ。きっともうすぐけもるが赤ん坊を産むだろうから、ヨルも一緒に出産の手伝いをさせよう。きっとヨルは見た事がないだろうからビックリするぞ!』
ヨルが帰ってきたら、アレをしよう。コレをしよう。
そんな事を考えながら、俺は冬も迫り夜風の冷たさが増す中、一人川べりへと来ていた。
俺は今からここで、水浴びをする。
『ふーっ!さすがに冷たいな!』
俺はスープが掛かってベタベタになった髪の毛や体を洗うべく、服を脱ぎ川へと入る。もともと薄い服しか着ていなかったが、やはり裸は思った以上に寒い。
『っくぅ』
正直、普段ならばいくら体が汚れたとしても、この時期に川になど入りはしない。それこそ、去年のインのように風を拗らせて、死にかけるかもしれないからだ。
けれど、今ならあの時の、真冬にも関わらず川に入っていたインの気持ちが、俺にも分かる気がする。
『きれいに、しないと!』
ヨルに会うのに、汚れたままなんて我慢出来ない。ヨルはいつだって綺麗だ。だから、俺もヨルの隣に居る時くらいは、少しくらい綺麗で居たい。俺は急いで、けれど丁寧に、丁寧に川の水で髪の毛や体を洗った。
そうやって、しばらく体を川へとつけていれば、川の冷たさにも少しだけ慣れてきた。まだ本格的な冬ではないので、どうにか我慢できる。
きれいに、きれいに。
髪の毛の一本一本。爪の先から足先まで。俺は丁寧に川の水で、体をすすぎ尽くす。本当ならば、体の至る所についている傷痕も、一緒に洗い流したいのだが、さすがにそんなのは無理だ。
『ヨル、おかえり』
俺は川の中で、まだ帰らぬヨルに心の中で伝える練習をした。そう言っていれば、本当に早く帰ってきてくれるかもしれないと、少しの望みも籠っている。
——–ただいま。スルー。
そう、俺の中のヨルが素敵な声で帰してくれた気がした。
けれど、俺がヨルに『おかえりなさい』を笑顔で言えたのは、明日ではなくずっと後になってからになるなんて、
もちろん、この時の俺は知る由もなかった。