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その日、村は妙にザワついていた。
『なんだー?』
俺が体を震わせながら水浴びをした、その次の日の事だ。
俺は出産を間近に控えたけもる達の元へと向かうべく、村の通りを歩いていた。もう、今やけもる達はいつ出産してもおかしくない。
『もしかして、もう産まれそうな子が居るのか?』
俺は騒がしい村の入口にある家畜場の方に目をやり、歩く足を速めた。もしかしたら、もう、誰かが産気づいたのかもしれない。それなら、急いであの子らの元へと向かわねば。
何かあった場合は、俺が助けてやるんだ!そう、その時の俺は意気込んでいた。
なにせ、俺はあの俺の事を大好きなけもるが生まれた時も、色々と頑張ったのだ。
けもるの母親は、ひどく難産で出産直後、けもるは息もしていなかった。だから、俺が口や鼻の所についたベタベタをとってやり、胸を叩き、鼻から息を吹き込んで、どうにか助ける事に成功した。
——-めぇ。
——-やったー!生き返ったー!
けもるがちゃんと息をした時の感動といったらない。
けもるだけではない。他の羊たちも皆そうだ。皆、ここで産まれ、ここで大きくなった。全員俺の子みたいなもんだ。
『赤ちゃんは本当に可愛いからな。俺が全部面倒をみるぞ。全部、全部俺の仕事だ!』
誰にも渡さない!
そう、俺は意気込んで村の小道を駆け抜けると、ザワつく村人達の元へと向かった。
そして、俺が村の家畜場の傍に到着した時。そこに集まっていた大勢の村人たちの視線が、一気に俺へと向けられる。
『おいっ!スル―が来たぞ!』
『早くこっちに連れて来い!』
その時の俺は、なんとも呑気な事に『もうけもるが子を産んでしまったのでは!?』なんて、おめでたい勘違いをしてしまっていた。
だから、その時の俺は早く生まれた子羊を見たいが為に、俺はこちらを見る村人達に向かって、腕まくりをして言ってやったのだ。
『よぉし!このスルーにまかせろ!生まれた子はどこだ!』
すると、そんな俺の言葉に村の年寄り達から突然、酷い怒声が飛んで来た。
『何を言っている!?お前、大変な事をしでかしてくれたな!』
『え?』
この時になって俺はやっと村人全員の視線の色が、俺に対する非難の色に染められているのに気付いた。そして、その目は酷く見覚えのあるものだった。
——–全部、お前のせいだ。
あぁ、これは何かがおかしい。“なにか”が起こっている。とてつもなく、悪い何かが。
俺はその時、昨日の親父の言葉が頭を過るのを感じた。
——–その時が来たら、口を閉ざせ。
まさか、こんなにすぐ“その時”が来るなんて、思ってもみなかった。せめて、ヨルに『おかえり』と言うくらいの暇はあると思っていたのに。
俺はドクドクと心臓が嫌な音を立てるのを感じると、ぐるりと周囲を見渡した。そして、皆の視線が、俺ともう一つ別の場所へと向けられているのに気付く。
『……まさか』
俺は周囲の村人を押しやり、その視線の先へと駆け出した。その先には、けもる達の居る家畜場がある。
『っ!』
そこには何も居なかった。
そう、木で囲まれた敷居の中には、一匹の動物も残っちゃいなかったのだ。出入口を見てみれば、開け放たれた戸。
どうやら、その戸が開け放たれていたせいで家畜が逃げ出してしまったらしい。
『スルー、昨日最後にここを使ったのはお前じゃないのか?』
『……さぁな』
『お前だろうがっ!ここに頻繁に出入りするのはっ!』
『最後かどうかなんて、俺は知らん』
俺は開け放たれた戸を見つめ、家畜場の中に入る。どこをどう見ても、そこには誰も居ない。いつもは、此処に入れば、けもる達が俺へと嬉しそうに駆け寄って来てくれるのに。今は誰も、何も寄って来ない。
『……けもる』
そして、此処にはけもる達だけではなく、馬や鶏など、ともかく村の大事な食糧を産んでくれる子達が居るのだ。
彼らは、この村の家族だ。俺の我が子だ。
それらが全員、居なくなってしまった。
『じゃあスルー、お前!昨日最後に此処に来たのはいつなんだ!』
『夜半過ぎだな』
———乳を搾ってこい。喉が渇いた。
そう、アイツに言われ。羊の乳を搾りに行った。その時には皆ちゃんと此処に居た。そして、俺は確かにここを出る時に、戸を閉めたはずだ。
『なら、やっぱりお前じゃないか!』
『どうするんだ。これから冬なのに!』
『レイゾンも売り切った後なんだぞ!』
村人達が不安と怒りを募らせ、口々に俺を責め立てる。そのせいで、どんどん周囲に不安と怒りが伝播していく。正常な判断が出来ずに、ともかく誰かをつるし上げずにはおれないのだろう。
今は誰が犯人かなどどうでも良い事だ。まずは、逃げた皆を探して連れ戻す事。それを一刻も早く開始する事こそが重要だ。
それに、犯人が誰かなど分かり切っている。
『一体、何があった』
俺は村の他の年寄りに支えられ此方にやって来る、あの老いぼれを視界の端に映した。ゆっくりと現れた村の責任者に、皆の視線も一気にそちらへと向く。
『村長!』
『どうした』
『家畜が全部逃げ出してしまったんです!』
『なんだと?誰か、すまない。こちらの手も引いてくれないか』
あぁ、わざとらしい。本当は足など悪くもない癖に。
俺はそうやってわざとらしい程に周囲に手を借りながら、こちらへと近寄ってくる男の様子に反吐が出そうだった。
『……っは』
そう、俺は鼻で笑ってやると、昨日コイツが俺を聞き慣れぬ名で声を震わせた時の事を思い出した。
———今度は俺が、お前を崖の下に突き落としてやるよ。
———っディスパイト。
俺が感情の籠らぬ声でアイツに、脅しではない言葉を吐き出してやった時だ。
この老いぼれは震える声で誰かの名を呼び、そしてその瞬間勢いよく椅子から立ち上がった。
しかも、立ち上がっただけではない。アイツは俺をまるで“誰か”と勘違いしているかのように、怯えた目でその場から飛退いたのである。
——–アンタ、元気じゃないか。俺の手伝いなんて、本当は必要ないんじゃないか。
そう言って俺が笑ってやった時の、あの老いぼれの顔ときたら。
なぁ、親父。お前には俺が一体“誰”に見えているんだ?
あんなに機敏に動ける老いぼれが、何をわざとらしく歩けぬフリなどをしているというんだ。不自然にも程がある。