77:金持ち父さん、貧乏父さん(77)

 

『おい、スルー。お前、出る時に戸は締めたんだろ?』

 

 不安の伝播する周囲を他所に、それに流されない一人の男のいつも通りの声が、俺の耳に響いてきた。言わずもがな。それは、オポジットだった。

 

『あぁ、締めた』

『お前が最後にここに来た時、まだ何も変化はなかったか?』

『無かった』

『だとすれば、一晩か。今から探せば、まだ間に合うかもな』

『そうだな』

 

 俺とオポジットの短いやりとりが小気味良く進む。最早、オポジットはこの件において犯人が誰か、なんていう不毛な言い争いをする気など毛頭ないようだ。

 

そりゃあそうだろう。ここで、不安を募らせ、誰かを吊るし上げても何も変わらない。

 

 それは、最も愚かで何も産まない。時間の無駄な行為だ。

 

『そんな誰が信じられるか!』

『もう狼に全部食われちまってるよ!』

 

 けれど、一度広がった不安や怒りは、そんな当たり前の判断すら見えなくさせる。

 俺はいつの間にか、村人に支えられ、よろけながら傍まで来ていた老いぼれへと目をやった。まっすぐと此方にむかって据えられるその目は、ハッキリと俺に語りかけていた。

 

———-時が来たら、口を閉ざせ。

 わかっているんだろうな?

 

そう、俺へと向けられる視線に、微かな冷笑が込められる。まさか、この老いぼれがここまで愚かだとは思わなかった。村長として、村の利を一番に考えなければならないコイツが、最早俺への憎しみに囚われ、その逆を行く行為に手を染めた。

 

 その犠牲に、あの子達がなってしまった。

 

『まさか、ここまでお前が愚かだとは……』

 

 そして、この台詞。

一瞬、俺が思わず我慢できずに心の中の言葉を吐き出してしまったのかと思った。けれど、違う。放たれたその皺がれた声は、もちろん俺のモノではない。

 

『スルー。お前、まさかわざとか?』

 

 これまで、一度も呼ばれた事のなかった名が、スルリと当たり前のように呼ばれる。今更なぜ俺の名を呼ぶのか。

もしかして、俺を“ディスパイト”ではない、と信じたいからか?なぁ、親父。お前にとって、俺はずっとお前の殺した、お前の“兄”だったのか。

 

『昔からお前は動物や家畜が好きだった。捕まえた兎も、狭い場所は可哀想だと、すぐに自然に返してやっていたな』

『…………』

『わざと、逃がしたんじゃないのか』

 

 俺は何も答えなかった。コイツとの約束を守る為ではない。俺はもう、こんな愚かな奴と、一言だって口を利きたくなかったのだ。

 

『答えろ、スルー』

 

 そう言って、わざとらしく足をもつれさせ、俺の両腕へと縋りつきこちらを見上げてくる男の目の、なんと汚い事だろう。

 

『……あの子らには、』

 

 逃がすだと?あの子達はここで産まれ、ここで育った。だから、ここで死ぬしかないのだ。この狭い檻の中で、死んでもらうしかなかった。

 

『ここしか、なかった』

 

 だって、彼らはここでしか生きられないのだから。

 俺は縋りつく、この男にしか聞こえぬ声で、絞り出すように言葉を紡ぐ事しかできなかった。視界の端に映るのは、誰も居ない、がらんとした空間。

 

 この狭い世界でしか生きられない彼らを、俺は早く連れ戻さねば。そうしなければ、全員この愚かな男の犠牲になってしまう。

 

『わざとだと!?』

『スルー!お前、そこまでバカだったのか!?』

『お前のせいで、村は冬を越せないかもしれない!』

 

 けれど、この男の言葉は正常な判断のつかない村人達にとっては、効果的だったようで、不安と怒りで二分されていた周囲からの視線が、怒り一色に染まっていた。結局、皆の中での俺は長年積み上げられてきた“変わり者のスルー”なのだ。

 

 でも、それを跳ね返すだけの力は、俺にはない。今更、跳ね返そうとも思わない。

 

『…………』

『おいっ!どこへ行くんだ!スルー!』

 

 俺は周囲の村人達の合間を抜け、歩き出した。

今の俺に出来る事は一匹でも多く、彼らをこの可哀想な檻へと帰し、少しでも長くこの檻の中で生きてもらうように努めること。

 

『一晩経った……街道か、森か』

『何を言ってるんだ!』

 

俺は静かに考えた。あの子らは皆草食だ。

だとしたら、自然と向かう場所は緑の豊な場所に違いない。補正されたととは言え、荒れ果てた緑の少ない街道側へと抜けるのは、あまりにも考えにくいだろう。

 

『まずは、森へ行く』

 

自由に世界を駆けまわれると知った彼らは、戻りたくないかもしれない。

 けれど、それは一瞬後に訪れる“危険”と“死”を孕んだ場所だと知らぬ彼らに、この世界は余りにも理不尽だ。俺達人間があの子らの野生を奪った。だとしたら、もう此処で生きて貰うしかない。

 

 俺はその瞬間、一気に地面を蹴るとこの村の誰よりも早い足で村の中を駆け抜けた。後ろからは、村人達の騒がしい声が聞こえる。けれど、俺はもう振り返ったりはしなかった。振り返る必要なんて欠片もない。

 

 だって、そこには俺の探しモノはないのだから。