○
『っは、っは、っは』
駆け抜ける、駆け抜ける。
俺は地面を蹴り、足を前へと必死に動かす。動かし続ける。
一晩。野生を知らぬ、人の手の中で生きていた家畜達にとって、昨晩は一体どんな気持ちで過ごしたのだろうか。
楽しかっただろうか。
嬉しかっただろうか。
怖かっただろうか。
寂しかっただろうか。
それとも、
『……っは』
ただ、ひたすらに“静か”だっただろうか。
俺は目を閉じ鼻を鳴らし、そんな事を思った。
そうやって森の中を駆け抜けていると、いつの間にか自分が人間ではなく野生の獣にでもなったような気分になるから不思議だ。
生も死も、野生の前には全て平等で、そして静かだ。人のようにとやかく余計な事を考える事はない。兄弟間で引け目や劣等感を覚え、その挙句に崖から突き落とすような事はしない。
ましてや、殺した相手の影に、永遠に怯え続けるなんて真似をするのは、きっと人間という生き物だけだろう。
——–っディスパイト。
『っははは!あはははっ!』
あの老いぼれの怯えた目が、何度も何度も俺の瞼に焼き付いて離れない。そして、それが愉快で仕方がない。やっとスッキリした。アイツが俺を、殺したい程に憎んでいた理由。そして、それなのに俺を殺さずに居た理由。
ただ、俺が他の雄の子だったからではない。
『お前にとって、俺はディスパイトの幻影だったのか!』
俺を見るあの男の目は憎しみに満ちていると思っていた。けれど、それは俺の間違いだったのだ。暴力を振るわれる恐怖で、俺の目は随分と曇っていたようだ。
『お前は、ずっとずっと!俺に怯えていたんだなっ!』
あぁっ、なんておかしいんだ!なんてバカらしいっ!
俺は、俺を恐れて怖がって拳を振り上げていたヤツから逃げ、そして怯えていたのか!まったく、こんなに愉快でバカらしい事があるなんて!
『……あぁ、まったく』
俺は必死に動かしていた足をピタリと止めると、枯れてしまった木々の枝葉を見上げた。先程まで高笑いを上げていた俺の声が、地鳴りのように低く俺の耳に響く。
『お前がその気なら、俺は喜んでディスパイトになってやる。一生、お前に殺した兄の影を見せてやるさ』
そう口にした瞬間、北から拭いてきた風が俺の髪を揺らした。
そして、その時に自然と握られていた俺の拳は、完全に人を傷付ける“悪い手”だった。けれど、この手を解く方法を俺はもう分からなかった。
『……俺は、ディスパイトだ』
——–お前のせいでっ!俺はいつも!いつも!
——–どうしてお前にはあって、俺にはないっ!?
——–お前ばかり!皆、お前の事ばかりを見る!
そう言って、アイツはこの森で俺に消えない傷をたくさん付けてきた。
そうして出来上がった、俺のこの見苦しくて汚らしい俺の体。俺はこの体が、ずっとずっと恥ずかしくて仕方がなかった。
周囲の大人が、当たり前のように我が子に与える“愛情”というモノを、俺は与えられずに生きて来た。それは生き物の持つ“野生”に大いに反する生き方だ。
我が子を愛し育むという、野生の本能から外れた場所に置かれ育った俺は、常に自分で自分の体を撫で続けるしかなかった。
『俺は、我が身が一番……かわいい』
俺はその呪いのような言葉をボソリと呟くと、握りしめた拳に更に力を込めた。
俺はアイツに、俺の残りの人生をかけて、見えない傷と恐怖を与え続けてやる。ディスパイトとして、ずっと、ずっと。
『……っは』
そう、俺が止めていた足をもう一度動かそうとした時だった。+
『あっ!スルーだ!』
『変わり者だー!』
『お父さーん!』
『スルーさん』
『インのとーちゃん!』
俺の耳に元気な子供達の声が響いてきた。その瞬間、俺はそれまで頭の中に渦巻いていた訳のわからない感情が、ピタリと静まり返るのを感じた。
あれ?俺は今、一体何を考えていただろうか。
『お父さん!ねぇ!見て!』
『……イン?』
見て!そう言って俺の前に差し出された子供達の腕の中。そこには子供達の腕の中に大人しく収まる鶏達の姿があった。
『おぉっ!』
俺は余りにも予想外な光景に、思わず感嘆の声を上げずにはおれなかった。
どうやら、逃げた鶏達は森で遊んでいた子供達によって、特に労する事もなく捕らえられていたようだ。ココココと、インの腕の中で俺の方を見てくるこの子は、いつも俺をつついてくる暴れん坊である。
これを言うと、村の奴らはどれも同じにしか見えんなどと言ってくるのだが、毎日つつかれている俺には分かるのだ。
『コココココ』
まったく、インの腕の中ですら俺の事をつつこうとその目を鋭く煌めかせてくるのだからたまらない。
『なんかね!森で遊んでたら、鶏がいっぱい集まってたんだよ!お父さん!この子達、村で飼ったらどうかな?』
『だな!卵をいっぱい産むから、きっと助かるよな!』
『俺、卵好きなんだー!』
『イン。そんなに鶏に顔を近づけないで。目をつつかれるよ』
村から家畜達が逃げた事を知らぬ子供達は、そんな無邪気な会話を俺の目の前で繰り広げる。その姿に、俺は先程まで握り締められていた手を自然と解いていた。
先程は、もう二度と解けぬとすら思っていたのに。
こんなにも簡単に解かされるなんて。
『お前ら!本当に最高だな!』
俺はそう、両手を広げ大仰に言ってみせると、鶏を抱えてにこにこと笑顔を浮かべるインやその他の子供達を一人一人抱き締めてやった。
『ふふっ、なに!お父さん』
『スルーがまた変な事してる!』
『変わり者だからしゃーねーな!』
『インのとーちゃんからじゃなくて、俺はニアがいい』
子供達を抱きしめた拍子に、抱きかかえられていた鶏達から漏れなくつつかれたが、俺はそんな事など一つも気にしない。抱きしめてやった子供らも、口では色々言っているものの、褒められて表情が更に緩んでいる。
あぁ、可愛い。子供らは、本当に可愛い。
ついでに、鶏を抱えていないオブも仲間外れはいかんと思い抱き締めてやろうとしたが、その瞬間、俺の額にはオブの人差し指が勢いよく突き刺さっていた。
『気持ちわるい』
『ぐ、お前は本当に酷いヤツだな!オブ!』
俺はオブの突いてきた額を撫でながらそう叫ぶと、フゥと小さく息を吐いた。ともかく、これで鶏達は捕まった。あとは馬と、羊のけもる達だ。
『皆、その子らを村の家畜場に連れて行ってやってくれるか?』
『いいよ!』
『きっと、オレ達!物凄く褒められるな!』
『だな!』
『みんな喜ぶだろうなぁ!』
最後に一人一人頭を撫でてやる。元気の良い返事が、俺の中にあった真っ黒い感情を一気に消してくれるようだ。
俺はぐぅからぱぁへ開かれた手で、最後にインの頭を撫でてやった。
インはいつも俺の落とし物を拾ってきてくれる。
大事なモノを拾い上げ、俺へと運んでくれる。
この子は、俺の宝物だ。