79:金持ち父さん、貧乏父さん(79)

『なぁ、イン』

『どうしたの、お父さん?』

 

 こちらを見上げ首を傾げてくる我が子を、俺はソッと最後にもう一度抱き締める。インの体は昔よりも随分大きくなった。きっと、このままどんどん大きくなって、俺なんてすぐに追い越してしまうのだろう。

 

『もしかしたら、今日は俺は帰らないかもしれないが……心配はいらない。お母さんにもそう言っておいてくれ』

『……お父さん?』

 

 インの耳元でそう静かに告げてやれば、インは身をよじって俺の腕から抜け出した。抜け出して、真っ直ぐと俺の方を見てくる。

 

『スルー?』

『……どうした?イン』

 

 インが俺の事を“お父さん”ではなく“スルー”と呼ぶ。

これは親子ではなく、男同士対等な立場で話したい時に口にされる呼び名だ。スルー、と俺の名を呼んだインが、少し考え込むような表情をすると、両手で抱えていた鶏から片手を抜き取り、俺の開かれた手へとその小さな手を伸ばしてきた。

 

『スルー、約束して』

『なんだ?』

 

 俺の手にインの小さな、けれど暖かい手が触れてくる。

 

『……崖には、行っちゃだめだよ』

『……あぁ』

『ひとを叩いてもダメ』

『……あぁ』

 

 何も知らない筈のインが、まるで何もかも知っているかのように、そんな事を言う。どうやら俺は、いつも通りのスルーをやれているつもりだったが、インだけには通用していなかったようだ。

 

『あとね、これはオブには言ってない計画なんだけど』

『ん?』

 

 インが少しだけ俺から視線を逸らし、口元に小さな笑みを浮かべてクスクスと笑った。その隣で、オブはインの口から急に出てきた自分の名に目を瞬かせている。

 

『オレが大人になって首都にお店を開いたら、スルーを歌手として雇ってあげる』

『へぇ』

『村のレイゾンを高いお金で買って、それでお酒を作って、お客さんに出して、そのお店でスルーは毎日歌を歌うんだよ。そしたら、スルーも一人にならずに済むし、村も裕福になるよ』

 

 インからの提案は、俺を一人にしないための優しい約束だった。隣ではオブが『そんなの聞いてないんですけど』という苦い視線をインに送っている。でも、その視線にインは気付かない。

 いや、本当は気付いているのかもしれないが、気付いていないフリをしているのだろう。

 

『ね、スルー。良い考えでしょ?』

『……あぁ』

 

 インはこう見えて、とても上手なところがある。オブは自分が思っている以上にインに上手く転がされている事に、きっと気付いていない筈だ。そして、それは俺も同じだ。

 

『それは……素晴らしいな!』

『ふふ!だよね!そしたらさ、スルー。きっとスルーは夜だけじゃなく、朝だって昼だってザンさんと遊べるよ!きっと、お店にだって遊びに来てくれるかもしれない!今みたいに、もう夜だけって我慢せずに済むんだ!』

 

 そう言って、何も分からないような顔に、何でも知っているような笑顔を浮かべるインの姿。

その顔に、俺はやっぱりこの子は凄い子だと思った。俺が心の奥に抱えていた真っ黒いモノを、インはどうにか取り去ろうとしてくれている。

俺に未来への希望を持たせる事で、崖の下に引きずりこまれそうな俺の手を、掴んだ。

 

 そうやってインは俺を、ディスパイトとしての暗い未来ではなく、スルーとしての明るい未来へと連れて行こうとしているのだ。

 インは、“スルー”という落とし物すら、拾い上げてくれた。

 

『……本当だ』

『だからね、約束は守るんだよ。そうしないと、雇ってあげないから』

『崖には近づかないし、人も叩かない』

『そう、そうだよ。約束したからね』

———-お父さん!

 

 

        ○

 

 そう言って、走り去っていったイン達の背を見送りながら俺は、自分の掌を見つめた。

正直、俺はこの件が終わったら、どうにかしてあの男を殺してやるつもりだった。

 

 アイツは生きている限り、俺の周囲に不幸をもたらす。何故ならアイツは俺の事を心の底から憎み、そして恐れている。

 今回はけもる達が犠牲になったのだ。次がインやニアだとしても、何もおかしい事はない。

 

 だから、俺はアイツの望む通り“スルー”ではなく“ディスパイト”として、アイツを崖底に突き落としてやろうと思った。

 

——–俺は、ディスパイトだ。

 

 けれど、

 

『やめだ、やめだ』

 

 俺は誰も居ない森の中で、そう投げ捨てるように呟いた。自身の耳に届いたその声は、どこか愉快そうで、本当にインと会う前の自分とは、まるで別人のような気分だった。

 

 どうあっても、俺はスルーだ。

ディスパイトではない。父さんではないのだ。

 

 それに、俺がいくら“ディスパイト”として、あの男を崖底に突き落としてやったとしても、結局、それは“スルー”へと返ってくる。俺の罪を父さんが代わりに背負ってくれる訳ではない。

 

———行動した事に付きまとう結果は、自分で受け止めなければならない。

 

 そう、これはまさに、俺がインとオブに対して偉そうに心の中で思っていた事ではないか。

 俺がアイツの中にあるディスパイトの幻影を纏っても、それは俺の真ん中にある小さなスルーまでは覆い隠せない。

 

『せっかく“スルー”が約束を貰ったんだ』

 

 インから貰った温かく、優しい約束。

 ヨルから貰った未来への、希望の約束。

 

 二人共それは“スルー”にくれたのだ。俺が“ディスパイト”になったら、それを果たせなくなるじゃないか。

あんな放っておけばいつかは死ぬ老いぼれの為に、俺の残りの人生を差し出す必要など、どこにもない。

 

『よし!』

 

 俺は、先程自身の手に優しく触れてきたインの小さな手を思い出した。あの手が、俺の閉じかけていた手を開いてくれた。その開かれた手を、俺は自分の口元へともっていくと、腹の底から大声を上げた。

 

『けもるー!スルーが来たぞー!』

 

 俺は大声で大事な探しモノの名前を呼ぶと、そのまま勢いよく地面を蹴った。

 

 

 

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