その時、既に日は大きく傾いていた。
山奥に沈みかけた赤く色付く太陽を横目に、体の大きなその男は腰に手をあて周囲を見渡していた。
『……もうすぐ、日が落ちるな』
『どうする、オポジット』
『どうしたもんかね』
オポジットと呼ばれたその体の大きな男は、顎に手を当てると家畜場の中を眺めている一人の子供へと声を掛けた。
『なぁ、イン!スルーはまだ帰っていないんだよな?』
『うん!お父さん、今日は帰らないかもって言ってたよ!』
なんて事のない声で返された言葉に、オポジットは深く溜息を吐くしかなかった。
『アイツ、羊を見つけるまで帰らない気だな』
そう、オポジットはその視線を、視界の端に映る家畜場へと向ける。そこには子供達の捕獲してきた鶏達と、オポジットが見つけて連れて来た馬、そして、村人達が原っぱで見つけ出してきた、数頭の羊達が何事もなかったかのようその場所に居た。
『まったく』
家畜達の脱走の後、スルーの行動を皮切りに、オポジットの指示で迅速に捕獲に動いたのが功を奏したのだろう。
今朝は一頭も居なかった家畜達の殆どを捕獲する事に成功していた。まさか、何も知らない子供達が皆で鶏を抱えて帰って来るとは思いも寄らなかったが。
『あとは……雌の羊が3頭と、スルーか』
けれど、肝心のスルーは未だに村に戻っていない。そして、その彼が最も可愛がっていた雌の羊たちもまだ戻って来てはいない。
『オポジット、今日はもう探すのは諦めよう』
『あぁ、そうだな』
程なくして、あの山に沈みかけた太陽も完全に隠れ、じき夜になるだろう。
この村人の中に、時間の概念のある者は殆ど居ない。けれど、体感として知っている。冬の夕間暮れが一瞬で過ぎ去る事を。
夜はもう目前だ。
『まったく、アイツ。夜の森がどれだけ危ないのか知らないワケでもなかろうに』
オポジットは駆けだして行ったスルーの横顔を思い出しながら、本当にどうしたものかと頭を抱えた。
スルーは昔から村人達に“変わり者”と揶揄されてきたが、決して愚かな人間ではない事を、オポジットはよく知っていた。特に野性的な勘や本能は、この村の誰よりも鋭敏と言える。
そんなスルーが、あの時ばかりは最早そんな野生の本能をかなぐり捨て駆けだしていた。
『そりゃあ、そうか』
——–もうすぐ、けもる達に赤ちゃんが生まれるぞ!全部俺が世話をするからな!全部俺の仕事だ!間違ってもお前みたいな野蛮な奴は手を出すなよ!いいな?
それは、ここ最近のスルーの口癖のようなモノだった。
街道の補正、そして畑仕事、それらの仕事の合間を縫い、スルーは毎日のようにこの家畜場へと羊たちの様子を見に来ていた。そうやって心底出産の時を待ちわびていたスルーの横顔を、オポジットは、今この時もハッキリと思い出す事ができる。
『仕方がない。スルーは、俺が探しに行くか』
『おい!オポジット、やめろ!夜の森に入るのか?』
『危険すぎる!』
そう、周囲の村人達からかけられる言葉に、オポジットが特に何の根拠もなく『大丈夫だ』と口を開こうとした。
その時だった。
『きっと、後ろめたくて帰ってこれんのだろう。アイツは』
然程大きな声ではないが、けれどハッキリと放たれた言葉が村人達の間を縫うように響き渡る。その、少しだけ違和感のある声に、オポジットはヒクリと微かに耳を動かした。
『オポジット。あの愚かな息子の為に、お前まで危険を冒す必要はない。皆も、今日は本当に申し訳ない事をしたな。親として、村長として何も出来なかった私を許して欲しい』
そう、両脇を村人に支えられ口にされる謝罪に、村人達は口々に村長への労いの言葉をかける。
ただ、オポジットだけはその男の声に、ほんの少しの違和感を覚え続けていた。一見すると責任者としての誠意ある謝罪のように聞こえる。村の今後を憂う気持ちと、皆の気持ちを想う悲しみの色を含ませた声。
ただ、
『けれど、このままじゃ皆の気もおさまらないだろう。村の責任者として、私はこの件をこのままにしておく事は出来ないと考えている』
『……なに?』
男の声は、様々な感情を滲ませているにも関わらず、その声には確かに“張り”があった。声に感情の揺らぎが、一切垣間見えない。その声の中にあるのは、苦しみでも悲しみでも葛藤でもない、別の一本筋の通った感情が隠されている。
その事に、オポジットは本能的に気付いた。
『村長、何を考えているんだ』
『私は決めたよ、オポジット』
オポジットは一歩一歩、村長と呼ばれる男の元へと歩を進める。そんなオポジットに、村人達は自然と道を開き、黙って彼の姿を見つめていた。
この場に置いて発言権を有する二人が、一体どんな決断を下すのか。村人達は並び立つ二人の若者と老人へと目をやる。
沈む夕日が最後に一段とその光を濃くした。
山奥の隙間から漏れるその濃い朱色が、オポジットの影をその老人へと覆いかぶさせる。
『私はスルーをこの村から権抜しようと思っている』
『っ!』
権抜。
その重すぎる言葉に、オポジットは思わず息を呑んだ。そして、それは周囲に居た他の村人にも同様の衝撃を与えたようで、家畜場の周囲が一気にザワつき始めた。