82:金持ち父さん、貧乏父さん(82)

『そう、だったな』

 

 オポジットはそれまで、自身の声も何か妙な緊張で上ずっていた事を知った。自分としたことが、やはりいつもとは違う状況に、心を乱されていたらしい。

 そう、内心笑って思えるくらいには、子供達の会話は彼を平常心へと戻してくれた。

 

『あぁ。スルーが子供のままが良かったと言っていた意味が、少し分かるな』

 

 これしきの事態で、あの有能な貴族の男を頼る必要などなかった。

彼に任せるべきは、村の事ではない。出来る事なら、この暗闇の中、森を一人で駆けずりまわっているであろう男の身を、任せたい。

 

『なぁ、村長』

『……なんだ、オポジット』

 

 オポジットの呼びかけに、先程まで生き生きと口を開いていた年老いた男の目が苛立ちの混じった色を含ませ、オポジットの姿を映し出した。

 

『とりあえず、俺はこうしたらいいと思うんだ』

 

 それに対し、オポジットは極めていつも通りの口調と、何でもない声で言ってのけた。その方が、皆の心も落ち着くと、やっと分かったのだ。

 そして、今やオポジットの言葉を周囲の村人全員が注目している。声など張らなくてもいい。大義名分や、もっともらしい理屈など必要ない。

 

『この話は、もうやめよう。今はスルーが無事に子羊を連れて帰るのを、待とうじゃないか』

『そういう訳には……』

『村長、じゃあ。それとも何か?』

 

 それでも、自分の言葉には村人を動かす力があると、オポジットは無意識に理解していた。そうさせる行動や振る舞いを、自信をもってこれまでしてきたのだから。

 

『故意にせよ、故意でないにせよ……これから、同じような過ちが起こる度に、村にたった一度の不利益をもたらした人間を権抜していくのか?』

『……っ』

 

 そう口にした瞬間、年老いた男の目がはっきりと憎しみの色に染め上げられるのを、オポジットは間近で見た。

そして、その目にオポジットは『あぁ、コレか』と、心底納得した。この目が、いつもスルーを見ていた目だったか。恨みと憎しみの籠った目。

 

 この目を、スルーは恐れていたのか。

 

『まったく。変わり者の癖に、変なモノを怖がるんだな。アイツは』

 

 けれど、だからと言ってオポジットは何も気にしない。この男に脅かされるモノは自分には一つもないと分かっているからだ。

 だから、オポジットはいつも通り、いつものように他の村人達に言ってやる事にした。

 

——–腹も減ったしひとまず皆、帰ろう!

 

 そう、口にするつもりだったのだが、それは寸での所で別の声によって遮られた。

 

 

『どうした、オポジット。これは一体何の騒ぎだ』

 

 

 静かな声が、村人達全員の耳をつく。誰の声かなど、尋ねずとも誰もが分かる事だ。

 

『あっ!ザンさんだー!』

 

 ここでもまた、インの透き通るような高い声が皆の耳へと男の名を届けた。その声は非常に嬉しそうで、インは隣に並び立つその男の息子へと何かを話しかけている。

 

『ザン』

 

 久々に聞いたその落ち着いた声に、オポジットは『やっと帰って来たか』と、組んでいた腕を解いた。そもそも、一体いつ帰ってくるなんて聞いてはいなかったが、オポジットはハッキリと言ってやりたかった。

 

 『遅かったじゃないか!』と。少しの八つ当たりの気持ちを込めて、実際そう言ってやる為に、オポジットは声のする方へと振り返った。

 けれど、振り返ったオポジットが、その不平を述べる事はなかった。

 

『うわっ』

 

振り返ったオポジットは思わずギョッとしてしまった。

 

『ザン、お前……』

『どうした』

 

 人々の合間を縫い、『一体これは何の騒ぎだ』と口にしてやってきた男の方が、まさに何事かと言った風体をしていた。

 

『お前……何で、そんなにボロボロなんだ』

『……あぁ、これか。馬で駆けて帰って来たからな。だからだろう』

 

 そう、なんてことのない顔で返事をする男に、オポジットは思わず眉を顰めた。まさか、この男はあの首都からこの村までの道のりを、馬一頭で駆け抜けてきたとでもいうのだろうか。

 

『お前、行きは馬車だったじゃないか!』

『馬車は遅いだろう』

『いや、そうかもしれんが』

『まったく、冬だと言うのに暑くて敵わんな』

『……』

 

 言いながら着ていた質の良いコートを脱ぎで、滴る汗を腕で拭う男の姿だけ見れば、一見すると季節を勘違いしそうだ。一体この男は、ここまで馬で駆ける途中、どう必死に動いたら、ここまで冬に汗まみれになどなれるのだろう。

 

『はは』

 

 オポジットは、最早乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

 それほどまでに、この男の足をこの村へと向かわせたのは他でもない。

 

『何かあったのか?スルーが見当たらないようだが』

『……何かあったし、その中心がスルーだよ』

 

 スルーだ。

 今、この場には居ない、森を駆け巡るスルーこそが、この普段は落ち着いた表情しか見せぬ男の“必死な姿”を引きずり出している。

 

『なに?』

『本当に、最近は色々あった。特に今日は……もう俺は腹が減ったぞ』

『……おい、オポジット。一体何があった。簡潔に説明しろ』

 

 その必死なザンの姿に、やはりオポジットは笑うしかなかった。現状、何も問題は解決していないのに。もう、全てが解決したような気さえする。

 

 今日は一日逃げた家畜を追って駆け回ったせいでクタクタだ。早いところ家に帰って夕飯を食べ、ぐっすりと眠りたい。もう、後はこの男に任せても、別に罰は当たらないだろう。

 そもそも、オポジットは頭を使う類の事柄は苦手ではないが、決して好きではないのだ。

 

『俺は腹が減った。もう、スルーの事は任せたぞ。ザン』

 

 オポジットは目の前の貴族の男の肩を軽く叩くと、ともかく残り全ての面倒事を、このスルー一筋の男へと任せる事に決めたのだった。