『あーぁ。もういっちまったよ』
オポジットは駆け抜けて行った男の後ろ姿を見送りながら一人ごちた。そこに向けられる視線の中には、尊敬と、どこか生暖かいナニかがある。
『ザンの奴、本当にスルーの事が好きだよな』
そう呟いたオポジットに、それまで周囲でスルーを権抜するのもアリかなんて口にしていた村人達も、こぞってうんうんと頷く。
『……まったく』
そんな周囲の姿に、オポジットはやはり改めて思うのだ。
やはりアイツは大したヤツだ、と。
先程まで、村人の中に蔓延していた不安と怒り、そしてスルーへの不信感が、ザンが少し話しただけで一気に消え去ってしまった。
『何が、人前で話すのが苦手、だよ』
——–俺には、人の前に立ち導く素養はない。声も、そうは張れん。だから、そういうのはお前がやれ、オポジット。
ザンはよくオポジットにそんな事を言っていた。どうやら、幼い頃から、自身の家族にそういった類の事を言われてきたようだが、それはただの思い込みだとオポジットは思っている。
『……十分じゃないか』
なにせ、ザンがこの村に来た時から……否、この村を変え始めた時から、彼の言葉にはいつも“力”があった。目的意識と、それを必ず実現させてみせるという行動力。それは、日を増すごとに強くなっていき、結果、今のザンの言葉の重みを作り上げている。声の大きさなどは、別に大した問題ではない。
この村を富ませたい。大きく発展させたい、と。
彼の瞳の奥には、常にその想いが渦巻いていた。その彼の野心がどこを起点として現れているのかは、分かる者には分かる事だ。
あの野心は他者に命ぜられたからという義務感などで現れてくるものではない。本気で彼の中でそうしたいと思っているからこそ現れてくる、心の叫びなのだ。
——–お前らは全員、俺が富ませてやる。だから、安心してついて来い。
その言葉に力を感じたからこそ、この村の若者達は自然とザンの行く方向へ希望を感じついて行く事に決めたのだ。故に、先程だって皆の不安を一瞬で取り払った。
——-スルーが、わざと家畜を逃がした?あり得ない。じゃあ、アイツの家に居る鳥は何故籠に入っているんだ。
——-まったく。お前達は一体何を不安がっている。何度も言っただろうが。この村は俺が富ませるから心配するなと。
そう、つらつらと何でもない顔で述べながら、極めつけに言ってきた台詞がこうだ。
『次の収穫分から、お前らのレイゾンの取引価格が倍価するからな。出荷量は例年並みを目指せ。作り過ぎると、それはそれで希少価値が減る。程ほどで良い』
『は?』
その言葉にオポジットを含む、村の誰もが耳を疑った。
どうしたら急にそんな事になるのか、訳が分からなかったのだ。けれど、それは村人にとって“突然”であっただけで、ザンにとっては決してそうではなかった。
『何をそんなに驚く事がある?俺達はこの為に、今までずっと手を尽くしてきたのだろう』
村人達の驚嘆に、むしろザンは呆れかえるしかなかった。
彼は、その為に1年以上前から街道の補正や、首都アマングの商会との交渉、果ては北部地方の商会にまで幾度となく足を運んでいたのだから。
『な、なんで。そんな事に……急に』
『何故って?オポジット、お前らは一体何のためにあの街道の補正を朝から晩までやってたんだ?山越えしなくて済む分、次の出荷から郵税が大幅に減る。ただ、酒商会の奴らはお前らの作ったレイゾンで作った酒を高級酒として取り扱ってるんだ。その銘を落としたくないから、酒の売値は絶対に落とさない。そうなった時に仲買の奴らの懐に入る分と此方の取り分を不平等に買い叩かれぬよう調整しに、俺は今回首都に行ってきた。言わなかったか?』
『言ってねぇよ!?』
正直、あの街道の補正がそこまでの結果を生むモノだとは誰も考えていなかった。ただ、補正をすれば金が貰えるし、使えるようになったら便利だしいいか、程度の事だったのだが。
まさか、こうもすぐに結果を出してくるとは思わなかった。
『ふむ、言ってなかったか……言ったような気がしていたが。これはスルーにしか言っていなかったのか?』
『……まったく』
そう言えばそうだ。山肌の補正の時から、このザンという男は、常に有言実行の男だった。
だからこそ、この男の言う事は信用に足ると、既に皆の中では昔からそうであったかのように深く根付いている。
『まぁ、詳しくは明日また話す。今はスルーだ。おい、オポジット。アイツはいつから森に入っているんだ』
茫然とする村人達の中、ザンはそんな事はどうでも良い事だとでも言うように、彼の中の最も重要な情報のみをオポジットへと尋ねてくる。その姿に、オポジットも村人も改めて理解した。
彼の野心の根源が、スルーなのだ、と。
ザンは幾度となく『お前らを富ませてやる』と口にしていたが、それは方便であって彼の中ではいつも『お前ら』は『スルー』だったのだ。
——–俺と、スルーは仲が良いんだ!
村で一番ボロを着て、時には履くものすらなく裸足で村や田畑を駆けまわる、一番粗末で小さな家に住む。
あの、変わり者と呼ばれる男。
ザンは、彼を少しでも富ませてやりたいと願っている。
それが、彼の野心の本質。それが、彼をここまで動かした。
金持ちだからと個人を寵愛する事で与えられる富ではなく、自身の手で半永久的に生み出せる富こそが、スルーにとっての幸福につながるのだと信じていた。
ザンは知っているのだ。
スルーに、籠の鳥は似合わない、と。
『スルーなら、今朝から森に入ったまま出て来てないぞ』
『今朝から、だと?』
オポジットの言葉に、ザンの目がこれでもかという程見開かれる。
今朝からなど、いったいどれほどの時間を一人森の中で過ごしているというのだ。そう、ザンが嫌に響き始めた自身の心臓の音に拳を握り締める。
『ザンさん、おかえりなさーい』
『……あぁ、インか』
『お父さんねー、今日は帰らないかもしれないって言ってたよ!』
『帰ら、ない?』
『うん!でも、崖には近づかないように言ったから大丈夫!』
続いて聞こえてきた、どこか安穏としたインの言葉に、ザンは何をどう考えても大丈夫ではないと、更に焦りを募らせるしかなかった。
いくら狼が本質的に臆病な生き物だとは言え、捕食対象の羊を襲う可能性は十分に考えられる。その羊を、今のスルーは追っているのだ。
話を聞く限り、スルーはきっと正常な判断が出来ていない。そんな男にとって、最も危険なのは崖ではなく、今度こそ狼の方だ。
『オブ』
ザンはインの言葉に何も返す事なく、視界の端に映る自身の息子の名を呼んだ。
『なんですか』
何故だか、少しだけ不機嫌でそっけない返事を返してくる息子に、ただザンは構っている暇はなかった。
『今晩、俺は帰らないかもしれないが、気にしなくていい』
『はい』
『皆にもそう伝えておきなさい』
『わかりました』
淡々と返される言葉の応酬。それはまるで親子というより、上司と部下の業務報告に近いモノがあった。ザンは端的に短く自身の伝えるべきことを息子へと伝えると、そのまま村人達に背を向けた。
『…………』
背を向ける瞬間、自身の傍に支えられながら立っている年老いた村の長へと視線を移す。
一瞬だけ、目が合う。ザンはその年老いた男の瞳に、何か強い感情が自身に向けられるのを感じた。
ほう、とザンは目を細める。
ザンとて新興の成り上がりの一族として、多くの悪意に晒されながら生きてきた男だ。その視線の意味するところくらい、手に取るように分かった。
だから、最後にザンは全てを自身の目に込めた。細めた目で、その年老いた男を見やる。
——–お前の命など、家畜より容易く、俺の手の中にある事を忘れるな。
別に全員をこの先の未来へと連れて行く必要もない。邪魔な奴は排除するのが、前進には最も効率的な方法だ。そう、ザンは今までもそうして仕事をこなしてきた。
だからこそ、他の貴族の中でザンは有名を馳せているのだ。
血も涙もない冷血漢である、と。
ザンは視線の端で、その老いた男がどのような反応を見せたかなど、最早気にしなかった。もう、ここからのザンは全ての神経と残りの体力を、スルーを探し出す事にのみ使う事を決めたのだ。
『ッスルー!』
ザンは走った。貴族あるまじき、優雅さの欠片もない姿で。
けれどこの村に来て駆けた日々は、ザンにとって無駄な事は一つもなかった。彼が走る時、いつも傍には笑顔のスルーが居たのだから。
『あーぁ。もういっちまったよ』
こうして、最初に放たれたオポジットの言葉に繋がる、駆けだすザンの後ろ姿が出来上がったのであった。