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『スルーっ!アイツ一体森のどこまで入り込んだんだ!』
ザンは、ひたすらに森の中を駆け回っていた。
否。この時彼は既にヨルであった。ザンは昼間に置いてくると、彼は心の中で決めているからだ。ヨルはスルーが彼に与えた名であり、特に本意であった訳でもないのだが、いやしかし、彼にとって今や“ヨル”は無くてはならない大切な名になった。
——-ヨルー!気を付けて行ってくるんだぞー!早く帰って来てなー!
そう、出発する前の日の夜には何事もないような顔で笑って見送ってくれた筈の男は、帰ってみるとどうやら色々と大変な目に合っていたようだ。
弟が死に、あの父親と呼ぶには余りにも毒染みた親の世話までも、スルーがする事になっていたという。そう、先程オポジットが家畜の話をする際に、こっそりと教えてくれた。
それこそ、周囲には聞こえぬような声で、ヒソリと。
そして、最後に語られたオポジットの言葉に、ヨルはハッキリと心の中に疾風が吹き荒れ始めるのを感じた。
———このままだと、スルーが村から権抜されるかもしれん。
『っくそ!』
権抜とは。まさか未だに使用される社会組織があるとは思わず、ヨルは一瞬自身の耳を疑ってしまった。もう消え去った、歴史書物の中だけの村社会制度だとばかり思っていたのに。
『何が権抜だっ!どこまであの村は歴史を後退すれば気が済むんだっ!クソクソクソクソッ!』
スルーときたら、少し自分が居ない間に“変わり者”という色眼鏡のせいで、村から追い出されそうになっている始末。森の中で必死に足を動かしながら、ヨルはひたすらに後悔した。
『どうしてっ、俺は大切な時に傍に居てやれなかったっ!』
そんな事が起こると分かっていれば、絶対に離れなかった。けれど、現実問題として未来の事など分かりようもない。仕方のない事だったのだ。
そう理性的に言い聞かせても、ヨルの心は一切癒される事はない。
理屈も合理も関係ない。
ヨルはスルーが辛い時は傍に居てやりたかった。
兄のエアが来た時に、思わず助けを求めてしまった自分にスルーが笑顔で手を差し伸べてくれたように。
——–無理だと言ったら、お前が側に居て、俺を助けてくれるのか?
——–…助けたい。俺はヨルの手助けがしたい!
傍に居るだけで助けられた筈なのに。その傍に居るというのが、大人にとっては妙に難しい。本当に、スルーの言う通り、大人というのは一見自由なようでいて、不自由な事ばかりだ。
『あんな村っ!あんな村っ!あんな村っ!』
正直、スルーにとってはこんな村出て行った方が幸せになれると彼は思っていた。そして、その考えは今も変わらない。
けれど、それはスルー自身の意思で、この村から飛び立つ時が来れば、の話だ。どんなに不遇で、どんなに閉鎖的で、どんなに排他的で、差別的な場所だとしても、あの村はスルーの故郷だ。
彼が巣から飛び立つと自分で決めるまでは、あの場所をよりよくする事しか、スルーを幸福にしてやれる方法はない。
出来れば、スルーには自身の選択により、村を飛び出して欲しいと願っているのだから。
『スルーッ!おい!どこだっ!返事をしろっ!』
ヨルは人生史上最も声を上げていると言っても過言ではない程、腹の底から声を出した。自身の口からこのような大声が出るなんて、ここまで必死な場面でなければ、彼自身驚いていた事だろう。
けれど、今のヨルにはそんな余裕など欠片もない。
彼は自身の上着の胸ポケットに忍ばせていた銃を、服の上から確認する。ここまで騒ぎ立てているのだ。狼の方から寄って来る事はないとは思うが、野生の生き物とはいつどう動いてくるのか、正直、本の知識だけで推し量れるモノではない。
『っくそ、スルー!』
スルーが既に狼の牙の餌食になっているのでは、なんて嫌な予感さえ覚える始末。
『スルーっ!!』
メ゛ェェェェェ!
『っ!?』
その瞬間、ヨルの耳を突く予想外な鳴き声に意識の全ては奪われていた。そして、軽々と自身の声がかき消される程のその絶叫とも呼べる鳴き声には、どこか聞き覚えがあった。
この鳴き声は、もしや。
『……ひつじ?』
いや、そうかもしれないのだが、羊とはこのように絶叫するように鳴く生き物だったであろうか。村の家畜場に居るのを何度か目にしたが、このような悲痛でけたたましい鳴き声は初めてだ。
けれど――。
メ゛ェェェェッェ
『……もしや、これは』
——-ヨル!もうすぐけもる達が赤ちゃんを産むぞ!羊の赤ちゃんはモコモコで白くて、可愛いからな!産まれたらぜひ、よしよしするといい!
『出産を……しているんじゃないだろうな』
ヨルは余りのけたたましい鳴き声に、明らかに通常とは異なる色を読み取るより他なかった。そして、そのけたたましい鳴き声のおかげで、自身が向かわねばならぬ場所もハッキリした。
『こっちか!!』
最早、ヨルは確信していた。
あの鳴き声の元にスルーが居る、と。そしてそこでは、必ずや自身の助けが必要になっているのだ、と。
『今度こそ、俺は間に合うぞ!』
ただ単に傍に居る事すら困難な大人だからこそ、傍に居る事に必死になりたい。それを諦めたら、もう共に何も分かち合う事など出来なくなってしまうのだから。
ヨルはともかくけたたましい鳴き声のする方へと、必死に必死に走り込んだ。