87:金持ち父さん、貧乏父さん(87)

 

『スルーっ!あぁっ!良かった、無事だったか!』

 

 俺の目の前に、肩で息をしながら、その背に満月を背負う男が現れた。その口は、何度も『スルー』と俺の名を呼んでいる。

 俺の名を呼び、そしてすぐに俺の傍まで駆け寄って来た。月に照らされながら、いつものように素敵な格好良い服に身を包み、いつものような優しい目をしている。

 

『よる……よるだ』

 

 その姿に、俺は先程まで感じていた焦りやら、心細さやらが一気に消え去るのを感じた。

 ヨルが来てくれた。一人では無理だ、でもやらなければと泣きそうになったらヨルが来た。

 

 帰って来てくれた!

 

『スルー!これは一体どういう状態だ!』

『っ!そうだ!』

 

 俺の足元でか細く鳴く子らと、膜につつまれたままピクリともしない子。そして、未だにお産が苦しくて鳴き喚くけもる。

 

『ヨル!一緒に赤ちゃんを助けるぞ!』

『はぁっ!?』

 

 俺は一旦ヨルが帰って来てくれた嬉しさを一気に心の中に仕舞い込むと、上に着ていたオンボロの麻の服を脱いだ。

 

『おいおいおい!スルー!お前こんな時に何をしているっ!?』

 

 脱いだせいで俺は上半身が素っ裸になってしまったが、そんなのは気にしていられない。隣でヨルが何やら慌てているが、俺の汚い体もヨルは見慣れているので別にどうって事はないだろう。

 

『ヨル!この服で、この赤ちゃんの口と鼻、あと濡れた体を温めながら拭いてくれ!』

『ちょっ!はぁ!?出来ん出来ん!俺はそういうのは出来ない!』

『出来ないじゃない!やるんだ!でなければ、赤ちゃんが息ができない!ほらほらほら!』

 

 そのまま俺は、べちょりと濡れて横たわるケモルの一頭目の子と俺のボロ服を手渡すと、俺自身は呻くけもるの出産状況を確認し、乳を探せずにいる子らへと手を貸した。

 

『……こ、こうか?こうか?おい、スルー!』

 

 ヨルの手が震えている。

どうやら、ヨルは赤ちゃんが怖いらしい。自分より小さくて、今にも死にそうな子が怖いなんて。ヨルは本当に変わっていると思う。

 

『そう、そうだ!その体の膜を取って、呼吸がしやすいようにして、それでも鳴かなかったら胸を叩け!それでも鳴かなかったら鼻から息を吹き込んで、それでも』

『待ってくれ!一気に言わないでくれ!』

 

 視界の端に映るヨルが若干泣きそうな声を上げている。いつもと違い過ぎるヨルの姿に、俺は思わず吹き出しそうになるのをグッと堪えた。

それに、俺以上に怖がって焦っているヨルが傍に居るせいで、何故か俺自身は落ち着いてきてしまった。不思議だ!

 

『ほら、ここが乳だ。わかるか?』

 

 めぇ

 

 俺は焦るヨルを横目に見つつ、乳を探せずに居た二頭の子羊達を母親の乳へと誘った。この最初の乳がどれほど重要か。

いや、もう本当に重要なのだ。これを飲ませなければ、せっかく元気に産まれた子らは死んでしまうし、母親達も親の自覚が産まれず、育児放棄をしてしまう。

 

 ぺちゃぺちゃ

 

 やっとの事で二頭の赤子が初乳へと辿り着いた。母親達がそれを拒む様子もない。これでこの子らは、一旦大丈夫だ。

 

『スルー!おいっ!拭いたが!?まったく鳴かないぞ!死んだのか!?コイツは!』

 

 代わりにヨルが鳴いている。

 俺はヨルの腕の中で未だにピクリとも動かないけもるの子に目をやる。あぁ、これじゃあまるで、けもるが産まれた時と同じではないか!

 

『胸を叩け!ヨル!』

『こ、こうか?』

『ヨル!誰が胸をよしよししろと言った!』

『いや、あまり強く叩くと可哀想かと……』

『ヨル!よしよしは俺にするんだ!その子の胸はパンと叩く!』

 

 こう!

 

 俺はヨルの腕の中の子羊の胸を勢いよく平手で叩いた。何度も何度も。

別に、これはヨルが俺以外をよしよししたから怒っている訳じゃない!必要だから叩いてるんだ!本当だ!

 

『おいおい!スルー!コイツは死んだのか!?』

『死んでないっ!そう簡単に生き物は死なないんだぞ!ヨル、みてろ!』

『っスルー!お前一体何を……』

 

 俺はヨルの腕の中でくたりとする赤子の鼻に、自身の口をくっつけた。そんな俺にヨルが『何をしているっ!?スルー』と、ギョッとしている。

 

 何をしているかって?

 俺はけもるもこうして助けたのだ。息をしていないなら、こちらから息を吹き込めばいい!一度空気が通れば、後は自力でなんとかしてくれるのだから。

 

 生き物は、生きるように出来ている!

 

『ふぅぅぅっ!』

 

 俺が息をしない子の鼻に向かって一気に空気を押し入れた。生まれたてのしっとりと濡れた赤子の匂いが、俺の鼻孔を突く。

 あと、これは当たり前なのかもしれないが、この子を抱きかかえているヨルも近くに居るので、ヨルの匂いもする。

 

 あぁ、やっぱりヨルの匂いは良い。素敵な匂いだ。

 ヨル、帰って来てくれたんだなぁ。

 

 俺が息を吹き込みながらそんな事を考えていると、それまでピクリとも動かなかった子羊の前足がピクリと動いた。俺はその瞬間羊の子から口を離すと、それと同時にその小さな口から『メ』と、か細く短い鳴き声が響いた。

 

 生き返った!

 そう俺がヨルの方へと視線を向けた時だ。

 

『スルー!鳴いたぞ!生き返ったのか!?』

 

 ヨルが、まるで子供のような表情で俺に問うてきた。その目は、夜空の星空を全部詰め込んだかのようにキラキラしている。

 あぁ……、なんて。綺麗なんだ。

 

 メェェ

 

『鳴いた!やっぱり生きてるな!コイツは、死んでいたけど、生き返ったんだな!』

 

 別に、息をしていなかっただけで死んでいた訳ではない。

 けれど、俺は『あぁ』と、短く頷いておいた。目の前の美しい男が、俺にはどう表現して良いか分からないほど、とても愛おしく見えたのだ。

 

『生き返ったよ。この子は』

『そうかっ!そうか!』

 

 俺に何があったとしても、この男だけは……ヨルだけは幸福の中に居て欲しい。そう、俺は心の奥底から湧き上がる感情に蓋なんて出来っこなかった。

 だから、たくさん俺の中に溢れ出る。

 

 ヨルは本当に、俺よりも……我が身より、誰より可愛く、愛おしい。

 

 俺は一瞬その強い想いに眩暈を覚え、目元を手で抑えそうになった。

 けれど、そんな感情の波は、足元で本格的に鳴き喚き始めたけもるの声により、一気に現実へと引き戻される事になった。

 

 メェェェッェェ

 

『さて、スルーは最後の赤ちゃんを取り出すぞ!ヨル。その子を寒くないように撫でながら抱っこして、次の赤ちゃんが出たらすぐにけもるの乳にその子を連れて来てくれ!』

『わ、わかった!』

 

 そう言って勢いよく頷いたヨルの姿は、きっと、カナリヤを大事にして頬を寄せていた、幼い頃のヨルの姿に違いなかった。